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家に着いたらまず、テーブルの上を確認する。
そこにはいつも置手紙がある。可愛らしいウサギのイラストが描かれた、小さなメモ紙だ。
“きょうは れいぞうこに はいってるよ。”
お母さんからのメッセージ。おやつの場所が書かれている。
私は椅子を押しながら冷蔵庫へ向かう。
冷蔵庫の真ん前まで来ると、その大きな冷蔵庫を見上げて、小さなため息を吐いた。
椅子をよじ登り、冷蔵庫の扉を開いて、そろりと中を覗き込んだ。
真ん中の段に、スプーンを乗せられたプラスチック製のカップが置かれていた。そしてその隣にはまた、小さなメモ紙。
“ふるーつぜりーだよ。おいしくたべてね。”
お母さんからの二つ目のメッセージ。いつも二段階。これは、お母さんなりのゲームだ。宝探しのような。
私はフルーツゼリーのカップと、一緒にあったスプーンを抱え、椅子を飛び降りた。そして迷わず玄関に向かった。
靴箱の上には、金魚鉢がある。夏らしい涼しげな、ガラス製の丸い金魚鉢。
その中には真っ赤な金魚が一匹、ひらひらと泳いでいる。
私はスプーンを口に咥え、ゼリーのカップを頭に乗っけた。
そして両手で金魚鉢を持ち上げて、慎重に玄関の扉を開けた。
腕の中に金魚鉢。口にスプーン。頭にフルーツゼリー。
そのまま私は庭へ向かった。
「おかえり、かよちゃん」
梅の木の前に着くと、梅の木が私にそう言った。
枝には沢山の梅の実が成っていて、今にも落ちてきそう。
私は梅の木の根元に金魚鉢を下ろし、スプーンを口から外し、フルーツゼリーを頭から取ってその場に腰を掛けた。梅の木に向かい合うように。
「うん。ただいま」
私はフルーツゼリーの蓋を開ける。
「幼稚園は楽しかったかい?」
梅の木が言う。
「うん。楽しかった」
私は答える。ゼリーの中に埋もれたミカンをすくいとり、口へ運ぶ。おいしい。
「今日は何をしたの?」
金魚が私に聞いてくる。
「粘土で動物を作ったよ」
「何を作ったんだ?」
次は金魚鉢が聞いてくる。
「キツネさんを作ったよ」
私は答える。すると、金魚が急に不機嫌な顔つきになった。
「勝手に入ってこないでちょうだい。あたしが話してるの」
「僕も質問して何が悪い」
「あんたは金魚鉢らしく黙ってお水を抱えてればいいのよ」
「本当に嫌な金魚だな。僕がどれだけ我慢してお前を住まわせてやってるか分からないのか?」
と、いつものように喧嘩が始まった。
金魚と金魚鉢は、仲がとても悪い。気付けば喧嘩をしている。
金魚鉢の方が不利だ。金魚は内側から体当たりができる。でも金魚鉢は何もできない。
しかも、金魚鉢のほうがいくらか年上だった。そして大人だった。わざと倒れて水を空にするなんて酷いことはしなかった。
「お願い、喧嘩しないで」
こんな雰囲気では、私が梅の木に重大な事実を打ち明けることができない。
「ほら、かよちゃんが困っているじゃないか。やめなさい」
梅の木は優しく金魚と金魚鉢を諭した。
ほろほろと口の中でほどけていくパインアップルをごくりと飲み込む。
「どうしたの、かよちゃん。なんだか元気がないようだね」
梅の木が風に揺られながら私に言う。
夏が本領を発揮しつつある。
どこかでアブラセミが鳴いている。
ぬるくなっていくゼリー。
「また生徒さんが来てるんだな。母親は今日もずっと客間さ」
不意に、ニホントカゲがやって来た。私の足元からちょろちょろと飛び出して、梅の木の幹に上る。
私のお母さんは塾の先生。私の家が教室。五、六人の小学生が今日は来ている。
五歳の私はお勉強の邪魔なので。お母さんの仕事の邪魔なので。こうして外で遊んでいる。
お母さんが私のお母さんではなくなったようで、確かになんだか寂しいような気もする。でも、そんな悩みはとうの昔に緩和した。
「かよちゃんは偉いね。お母さんのために我慢ができて」
梅の木がいつも私を褒めてくれるから、私はそれが嬉しくて、わがままな子供にならなくて済んでいる。
「お母さんの一番の宝物はかよちゃんだってこと、知っているんだもんね」
梅の木のおかげで、お母さんを困らせなくて済んでいる。
梅の木は私の心の支え。私の成長を一番に見てくれる存在。
「あたしもかよちゃんが一番の宝物よ」
「僕だってそうだよ」
金魚と金魚鉢は、なんとなく察しているのだ。だから今は言い合いもせずに私を元気づけようとするのだ。
「親父さんは今日も仕事か?」
ニホントカゲが言う。私はサクランボを飲み込む。
「うん。そうだよ」
お父さんは朝早く家を出て、夜遅くに帰ってくる。とても忙しそう。毎日毎日お仕事で、私はあまりお父さんに会っていない。
でも、お母さんが言うには、これからはもっとお父さんといられるらしい。お父さんと遊べるらしい。それはとても、とても嬉しい。
ハトの鳴き声が聞こえる。
あの独特な音が、ハトの鳴き声であることを教えてくれたのは、梅の木だった。
夏に大音量で鳴いている虫が、セミという生き物であること。セミの中にも沢山種類があって、鳴き声が異なること。それをお母さんやお父さんが教えるよりも早く、梅の木は私に教えてくれた。
何でも口の中に運んでしまう赤ちゃんな私に、アジサイの葉には毒があるからと注意してくれたのも梅の木だった。
もちろん、お母さんが私を大切に思っていることを教えてくれたのも梅の木だった。
「あのね」
だから、私は本当に、この梅の木が大好き。
「どうしたんだい。かよちゃん」
梅の木の優しい声に、泣いてしまいそうになる。でも、泣いたって仕方ない。
ニホントカゲが、下りたり登ったりを繰り返している。金魚も金魚鉢も、珍しく黙ってくれている。
私は空になったゼリーカップとスプーンを置いて立ち上がる。一歩梅の木に近寄って俯き、揃えられた自分の足を見つめた。
「引っ越すんだ、私」
少し冷たい風が、私と梅の木の間を駆け抜けた。梅の実がいくつか地面に落ち、無数の葉っぱが吹き飛んだ。
「そうかい。それは、寂しくなるねえ」
梅の木は枯れた声でそう言った。
もう少し、びっくりしてくれるかと思った。
私の悲しみは空回り、心には何も残っていないような風通しの良さを感じる。
私はこんなに梅の木との別れを惜しんでいるというのに、何故梅の木はこんなにも落ち着いているのだろう。
梅の木がいなくなってしまったら、誰が私に物事を教えてくれるのか。誰が私の疑問に答えてくれるのか。誰もいないではないか。
私はこれ以上大人になることができないのかもしれない。これ以上知識を得ることができないのかもしれない。
何故海が塩辛いのか。何故空が青いのか。風はどこから吹いてくるのか。まだまだ知らないことが多すぎる。
「お前はきっと池に流されるぜ?」
「うるさいわね。あんたはきっとリサイクルショップに売り払われるわ」
金魚鉢と金魚が小声で言い争っている。
金魚も金魚鉢も、もちろん連れていくつもりだ。金魚も金魚鉢も私の家族で、両親もそれは理解しているはずだ。
梅の木だって本当は連れていきたい。大切な家族だからだ。でも、そんな大それたわがままは、決して許されないし、現実的ではない。
「枝を折って、持っていくかい?かよちゃん」
不意に、梅の木がそんなことを言い出した。
「そんなことできないよ」
梅の木の枝を折るなんて、そんなことできない。怒られてしまうという不安からではない。大好きな梅の木を傷つけるなんて、そんな酷いことはできないのだ。そりゃあ、梅の木の枝を手にすれば、梅の木にそばにいてもらい欲求をいくらか満たせはするだろう。だが、自分のために、自分の心寂しさを和らげるためだけに、梅の木に苦しみを与えることはできない。
ニホントカゲが私の目線の高さまでやって来た。
「なんでできないんだ?ほら、この枝なんかどうだい?これなら届くだろう?」
ニホントカゲはしっぽで、幹の途中に生えている小さな枝を示した。確かに手が届く。でも、そういうことではないのだ。
「怒られちゃうよ。枝を折るなんて、悪いことだもん」
「大丈夫。心配しなくてもいい。寂しいから、連れて行ってほしいという、わがままだと思っておくれ」
私は思わず梅の木を見上げた。
梅の木が、わがままを言っている。物知りで、優しくて、分別のある梅の木が、子供の象徴である"わがまま"を言っているのだ。
「わがままを聞いてくれるかい?」
私は小さく頷いた。そしておもむろに手を伸ばし、ニホントカゲが示した小さな枝を優しくへし折った。湿り気を帯びた手応えと共に、その枝はパキリと幹から離れ、私の手の中にやって来た。
「本当に良かったの?」
私はしばらく手の中の梅の枝を眺めた後、不安げにそう問うた。
「最後のプレゼントだと、思っておくれ」
梅の木は静かにそう言った。
夕暮れが近づいているのか、庭の草が黄色がかっている。ヒグラシの鳴き声が、切なく響き渡っている。
「かよちゃん?」
後ろからお母さんの声。
「お外でおやつ食べてたのね」
そう言いながら、玄関から出てきた。
もうお勉強は終わったのだろうか。私はようやく母親を独占できる時間がやって来たかと思い、口元がほころぶ。思わず駆け足でお母さんの元へ移動した。
「あら?それ、梅の木?」
お母さんの言葉に、どきりと胸が跳ねる。今更隠すこともできず、ただ私は体を硬直させた。
「珍しいわね。かよちゃんが植物を持ってくるなんて」
お母さんが私の手に握られた梅の枝を見つめている。手の平から汗がにじみ出てくる。
「ご、ごめんなさい。枝、折っちゃったの」
私は消え入りそうな声で呟き、俯いた。
「大丈夫。梅は枝を減らしてあげたほうがうんと元気に成長できるのよ」
私の頭に手を置いて、お母さんが柔らかい声で言った。私はそろりと顔を上げ、目を瞬かせてお母さんを見つめた。
「桜は折ったら腐ってしまうけど、梅は大丈夫よ。むしろ枝が増えすぎると栄養が行きわたらないから、引っ越す前に一回手入れしてあげなきゃね」
お母さんはそう言って、腰に手を当てて庭を眺めた。涼しい風が吹いてきて、つられて私は振り返る。
庭には、私の大好きな梅の木。そしてその根元には、私が可愛がっている真っ赤な金魚と、それを入れたお気に入りの金魚鉢。
夕日が金魚鉢を照らし、綺麗に光を反射させていた。
私はほっとため息を吐き、地面の上に置いてきたゼリーカップを拾いに行った。
その日を境に、梅の木も、金魚も、金魚鉢も、ニホントカゲも。みんな沈黙している。
何も話してはくれない。
でも、少しも寂しくはない。
もう心配ないって、思ってくれた証拠なのだから。
いや、やっぱり寂しい。悲しい。とても。とっても。
いいよね。だって私は五歳児なんだもん。
私は随分と長い間、梅の木の枝を大切にしていたが、やがてそれはどこかへと行ってしまった。
しかし、梅の木との思い出は、今も私の中に大切に保管されている。
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