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11月。 夜6時過ぎ。 僕は、自家使用のプレートを出したタクシーの助手席に、中三になる娘の凛を乗せて、隣県のトランペット教室へ車を走らせていた。 「なんで嘘つくんだよ」 「うん」 「余計な嘘じゃん、それ。誰の得にもなんない。凛の為でもない」 「うん」 「今の先生の所に通い始めたのが、9月。もう2か月だ。ずっとやってなかったろ。音階練習」 「ん」 「なんで、ちゃんとやってる、とか言うんだよ」 「うん」 「凛がちゃんとやってるって言うなら、そう思うじゃん。お父さん、信用してるんだよ」 「うん」 「なんでやんない?」 「だって」 「なんで?」 「つまんないから」 娘の凛は、小学校ではブラスバンド、中学校では部活のビッグバンドに入ってトランペットを吹いていた。 そして、それと並行して、小学校の時からトランペットのレッスンを近所の教室で受けていたのだ。 小学校低学年の時は、内向的でおとなしかった性格が、トランペットを吹くようになってから、ガラッと変わったのは、親としても喜ばしいことだった。 そんな凛に転機が訪れたのは、中三の春。 進学に当たって、凛は、志望校を県立の芸術高校にした。そこの音楽科で、トランペットをもっと専門的に学びたいと思ったようだ。 音楽科の受験だから、筆記試験に加え、実技試験がある。 準備すべきことは、国語、数学、英語、に加えて。 副科ピアノ、聴音、視唱。 それに、トランペットの課題曲演奏と、音階吹奏。 聴音というのは、ピアノで弾かれたメロディを譜面に書き取る試験。視唱というのは、初見の譜面を見ながらドレミでメロディを歌う試験。 普通の受験生よりやることは多い。 凛は、春から受験準備のため、ピアノに通い始めた。幸運なことに、近所のピアノ教室の先生は、ピアノの他に、聴音と視唱のレッスンも引き受けてくれた。 そして、トランペットは、今まで習っていたジャズ専門の先生から、クラシックの先生を紹介されたのだ。クラシックにはクラシックなりの吹き方。受験には受験向きのレッスンが必要らしい。 それで、凛は、9月から、ジャズトランペットのレッスンを半年休みにして、クラシックの先生の所へ通っている。 そして、今日、仕事が休みだった僕は、トランペット教室に行く前、少し凛の自主練に付き合ったのだ。ところが。 「つまんないって、お前。まあ、そりゃ、音階練習がつまんないのはわかる。でも」 「うん」 「今まで楽しく吹いてたからな」 「うん。あ、でも、課題曲の方、アーバンは好きなんだ」 受験で演奏する凛の選んだ曲は、管楽器向けの練習曲をたくさん書いた、アーバンという名の作曲家の一番有名なもの。 「アーバンは、上手に吹けてたと思うよ」 「うん」 「でも、音階練習は?どうした?」 「はい」 「全然、吹けてないじゃん。慣れてないだけじゃなくて、出せない音がある。一番高い音と、一番低い音。凛、自分で気づいてたよね。できてないの」 「うん」 音階を吹くというのは、ドレミファソラシドドシラソファミレド、を吹くことだけれど、ことはそんなに簡単ではない。 鍵盤の、ド、から始まるドレミファソラシドもあるし、鍵盤の、レ、から始まるドレミファソラシドもある。キーがかわる、というやつだ。 キーは全部で12あるから、パターンも12あることになる。受験では、そのうちの9つ。その中のどれかが出題されることになっていた。 さらに加えて短調の音階もあり、そうなると、ドレミファソラシドのパターンは倍になる。全部で18パターン。 受験までには、これをさらっと吹きこなせるようにならないとならない。 「大変なのはわかる。楽しくないのもわかる。でも、今は」 「知ってるよ」 「とにかく嘘はよくない。誰にとっても」 「うん」 「お父さんは、今の今まで、凛が音階練習をちゃんとやってるもんだと思ってた。だから何も言わなかった。やってないって知ってたら、もっとけしかけてたし、ちょっとは手伝いもできた」 「はい」 「受験するのは、凛だよ。自分で決めたんだよね。損するのはお前。ごまかしてどうするよ。音が出せなきゃ、失格じゃん。音がいいとか悪いとか、表現力がどうとかいう以前の問題。音が、出ないんだから。トンカチ持ってない大工だ。スープがお湯のラーメンだ」 「ひどい」 「だって、そうじゃん」 「お父さん、いつも、そんな風にばああ、って言うから。言われるの嫌だから。つい音階練習やってるって、言っちゃったんだよ」 「え?」 「ごめんなさい。つい言っちゃったんだよ。でも、お父さんは、嘘、ついたことないの?」 僕の嘘?
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