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悲しくて泣き出したい夜だった。
でも涙なんて出やしない。心持ちはひどく静かで、まるで深海何千メートルというところにいるようだ。
真っ暗、真っ黒、真の闇。無音……いや、気のおかしくなりそうなほどやかましい大静寂。
このふとんのやわらかな感触、常夜灯の灯りにてらされた天井、戸外できこえる葉のすれ合う音。——それを見、きき、感じているのは、わたしじゃない。
わたしじゃない、わたしじゃない、知らない誰か……。
「…………!」
いけない! と思った。
死んでしまうと、大げさではなく感じた。
わたしはふとんを飛び出した。得体の知れないなにかにとらわれないために。得体の知れないなにかになってしまわないように。
パジャマ姿のまま、素足のまま、家のドアを開け放ち、外に出ていった。
夜の冷たさが心地よかった。
息は真っ白に凍り、素肌はいてつき、素足はにこごえたけれど、そんな感触が、わたしにわたしを感じさせた。
自分自身にピントが合った。
——たしかにわたしはここにいる、寒い寒い、冷たい冷たい、ここで感じている、だいじょうぶだいじょうぶ。
わたしはより寒さを求めるように、冷たさを求めるように、街中を歩いていった。
いつのまにか近所の公園にきていた。
イチョウの木が高く背を伸ばしていて、こんなこごえた真夜中に、立派にそびえ立っている。斜めから月光を浴び、青いやわらかな光に包まれていた。
イチョウの木が大きく波打つと、しばらくして、わたしの髪も巻き上げて風が渡ってゆく。
いいにおいがする。
夜の清々しく清潔な、土や緑のにおい。
風が通り抜けていった後、風を追いかけるように金色のなにかが飛んでゆく。次から次へと。やがて大群となって。
一瞬、辺りが金色に塗り変わった。
「金色のちょうちょ!」
いく百、いく千、いく万ものちょうちょが飛びすぎてゆく。
わたしは、びっくりした。
びっくりして、近づいてきた一匹に手を伸ばすと、それは簡単に手にすることができた。
優しく包んだ手をほどいてみると、
「……なあんだ、葉っぱじゃないか」
わたしは思わずつぶやいた。
ちょうちょに見えたのは、風で大木からとき放たれたイチョウの葉っぱだったのだ。
なあんだ、わたしは桜吹雪ならず、イチョウ吹雪をあびながら、手にした一枚の葉をながめていた。
頭や肩に金色の葉が降りつもる。
どこからそんな気持ちがわいてくるのか、わたしはひどく安心していた。
わたしは手にしたイチョウの葉を、本当のちょうちょを逃すときみたくそっと空にかかげると、ひゅるっと小風が吹いて、葉っぱはほんとうのちょうちょのように、月に向かって飛んでいった。
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