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不思議な気分でボーっとしていると、片付けを終えた彼が戻ってきて「どうしたの?」 と小首をかしげるのが鏡越しに見えた。
「三年前に戻ったみたい」
「あー、そうだねぇ」
彼の指が慣れた手つきで私の毛先にサラリと触れた。しばらく髪を触って、鏡の中の私にニッと笑顔を見せて言う。
「三年前、美春ちゃんが何て言ったか覚えてる?」
三年前に自分が何と言ったか? 覚えているような、覚えていないような。彼が初対面で毒気も何もなしに失恋かと聞いてきたのはしっかり覚えていたけれど、自分の言ったことはあやふやだった。
「恋をしたから気持ちだけでもリセットするんです、って」
そういえば、そんなことを言ったような気がする。
中学生気分のまま高校に上がって、そこで彼に出会って、せめて気持ちだけでも新鮮な、新しい気持ちでいたかった。そんな時期が確かにあった。あの頃はただ、ただ彼が好きで毎日うきうきキラキラしていて。
「それ聞いて、いいなーって思ったんだ。だから、勝手だけど最初と同じカットにしたよ。お任せされたしね」
よく覚えているなあと彼の動きを追っていると、彼は鼻歌まで歌っていて、いつもにも増して楽しそうだった。私は不思議に思ったけれど、何を聞いていいのかわからず視線で追うだけだ。
ぼんやりと彼の姿を追う私に気づいて、彼は、「何、見惚れちゃうー?」と軽口を叩きながらも店内のモップがけに勤しんでいて、やがて鼻歌が終わるとともに私の方を向いた。
「また、いい恋ができるといいね」
太陽のような明るい笑顔を私に向け、彼は言う。眩しい笑顔で、さっき終わった私の恋がいいものであったのを疑いもしない表情で、そんなことを。
つん、と鼻の奥が痛かった。目頭が熱くなるのを少し俯いて堪える。泣かないぞ、泣かないぞと、ばれないようにゆっくり深呼吸をして、ああ、と思った。
ああ、本当にいい恋だった。いろんな気持ちを知れた恋だった。酸いも甘いも存分に楽しんだ。彼が言うように「また」があるのなら、それも終わったときにいい恋だったと思えるような、そんな恋であればいい。
すん、と鼻をすする。振り返る彼が、やはり鏡越しに見えた。彼は困ったように微笑んで、モップを置いて私の頭を優しく撫でる。短くなった髪は赤くなった目頭を隠してはくれない。
「……長い髪は勿体なかったけどさ」
私の顔を見ないまま、彼が静かな優しい声で言う。
「俺は美春ちゃん、短い方が似合うと思うよ」
ぽかんとして固まって、ぎこちないその言葉が彼なりの慰めだと気付くと、僅かに頬が赤くなるのを感じながら小さく笑った。
綺麗な顔でそんなことを言って、深い意味はないとわかっていても、慰めの言葉だとわかっていても、なんだかこの人はずるいよなあとくすぐったい思いがする。
ふんふんとわざとらしく鼻歌を歌いながら掃除を再開する彼に、私は反応を返すこともせず、ただただ、どこか照れてしまっている心を何とか平常に戻すのだ。
そして眦に浮かんだ小さな涙を人差し指で軽く拭って、「ありがとう」と小さく囁くような声で告げた。それが彼の耳に入っているかどうかは、私と同じように微かに赤くなっている彼の耳を見れば明らかだった。
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