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食器を一緒に片付けて、家を出る。流石に留守にするときは鍵をかけるだろうと思っていたが、彼女は扉をそのままに出てきてしまった。
「鍵はいいの?」
「だって、一階の窓開いてるし」
玄関だけかけても意味はないということらしい。それは確かにそうだと思ったが、だったら全部戸締りをしないとと不安に思う。けれどそんな俺に彼女は小さく笑って言うのだ。
「盗られて困るものもないし」
「いいのいいの」と気にも留めずに歩き出す彼女の後を追う。彼女は家の前の道を渡り、ガードレールを身軽に超えて、コンクリートの上を危なげなく歩いている。
家は浜辺までは少し遠かったが、彼女はその海沿いの道を低いサンダルで歩くのがとても好きだった。波の音が耳に心地よく、まだ夏ではない夜の風は少し冷たかった。
「寒くない?」
「大丈夫。清良さんは?」
「私も平気」
浜に着くまでの間、清良さんはあまり話さなかった。白い横顔は海を優しく眺めていて、俺はそれを一歩後ろから見つめていた。その視線がたまに絡むと、彼女は俺に小さく微笑んだ。優しいけれど、切ないような時間だと思った。
白い砂浜には誰も居ない。「夏前のこの時期は、独り占めできるから好きなの」とそう言って、サンダルに砂が入るのも気にせず、彼女は足を踏み入れた。波で濡れるか濡れないかくらいの場所に腰を下ろし、「吸ってもいい?」と煙草の箱を取り出す。それに頷くと、すぐに甘い煙が漂った。
「清良さんは」
「うん?」
「何で海ばっかり描いてるの?」
彼女は長い髪をラフに上げ、ワイドデニムに白いティーシャツというカジュアルさでそこにいる。いつも筆を握る手にはところどころ絵の具がついていて、彼女の服からは今吸っているのと同じ香りがした。
浮世離れしてどこか消えてしまいそうな雰囲気が、ほっそりとした身体の線によってより引き立てられている。
細い手を地面と水平に伸ばし、自分の指先を眺めて「うーん」と小さく困ったような声を出す彼女は、やがてポツリと呟いた。「帰りたくて」。
「深い青も、夜の黒さも、受け入れられているようで、落ち着いて仕方がないから」
微笑みがどこか切なく感じるのは、俺が切ないからなのか、彼女が切ないからなのか。
彼女は立ち上がり、海に向かって歩いて行った。つま先を濡らし、足首を濡らし、徐々に深まる海に入っていく彼女を茫然と見つめ、はっとする。
「清良さん」
呼ぶと、振り返る。彼女は笑っている。
「入りすぎれば死んでしまうし、受け入れられているなんていうのは錯覚なんだけどね」
言いながら、俺のところへ戻ってくる。ぐっしょりと濡れたジーンズを軽く絞って、彼女は「帰ろうか」と一言。行きよりも長いような短いような複雑な帰り道を、同じ道を、二人で歩く。前を進む彼女の煙草が甘く俺の鼻をくすぐる。
鍵のかかっていない家に入り、彼女を風呂まで誘導すると、「なんか、私の方が年下みたい」と苦笑して、言われるままにシャワーを浴びに行ってくれた。俺はその間にティーポットとカップを用意し、彼女が出てきたタイミングでお湯を沸かす。
濡れた髪をタオルで拭きながら出てきた彼女は俺の様子を見て「ありがとう」と一言言って、促されるまま席に着く。
彼女は俺が来ることを嫌がっているわけじゃない。それはいつも、今とは逆にお茶を淹れ、少しだけでも話をする時間をくれることを見れば明らかだった。それはきっと、俺からは大人達から感じるような視線を感じなかったからなのだろう。
違和感のある笑顔も、無理をしていたのだと思った様子も、大人達の視線も、それら全てに対して彼女は俺が思うよりももっとずっと傷ついていて、そういう人で。人の世の中が居心地が悪くて。
網膜にこびりついた、海に踏み入る姿に、思う。
「温かい」
そう言って俺が淹れたお茶を飲む彼女は、ただ、少し人よりも繊細で、人よりも臆病で、人よりも自信がない人なのだと、それを俺は今日初めて知ったのだ。
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