focus - 002 青に抱かれて feat.清良

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 海の見える家に彼女は住んでいた。白い壁の家は人里からは離れていて、どこに行くにも車がいる。道の向こうのガードレールを越えれば海があり、レースのカーテンがかかる窓からは深い青が見えたし、ベランダに出れば潮の匂いがした。  チャイムは壊れて音が鳴らないからと入口には代わりのベルが置いてあるけれど、壊れたチャイムは彼女が線を切ったのだということを俺は知っている。ポストには毎日早朝に新聞が入れられて、彼女は毎朝三時、その音で目を覚ますのだ。  だからといって、来客にこたえてくれるかどうかはその時の彼女の気分次第で、親しい人は――とは言っても来客なんて俺くらいしか見た事がないけれど――いつも開けっ放しで鍵のかかっていない玄関の扉から勝手に上がって行く。  今日も形式上一応ベルを鳴らして、反応がない玄関のドアを自分で開けた。一階の台所へ行き、買ってきた食材を冷蔵庫に放り込む。先週入れた分は大体なくなっていて、自然と笑みがこぼれた。  開いている大きな窓から潮風が吹き込んでいる。風通しのいいこの家は、家の中でもまるで海辺に居るようだった。  相変わらず不用心だなあ、と来るたびに思うが、ここまで訪れる人の少なさにそれでもいいのかと思い始めている。  どうせ今俺が窓を閉めたところですぐに開けられてしまうし、彼女に危ないと進言したところでその意見は右から左へ通り抜けていくのだ。  片付け終わり、玄関の正面に見える階段を上がって彼女の仕事部屋へ行くと、やはり彼女はそこに居た。  部屋からは、甘い煙草と油絵具のまざった匂いがする。ギイギイ鳴る階段の音で気付いていたらしく、彼女は部屋の端にある戸棚からグラスを一つ出し、小さな冷蔵庫からお茶を取り出して注いで待ってくれていた。 「いらっしゃい」  少し低い、静かな声で俺に呼びかける。彼女は煙草を灰皿に押し付て、キャンバスに向いていた椅子を入口に向け、腰かけて俺を座るよう促した。 「お邪魔してます」  俺は彼女の向かいに空いた椅子に座り、淹れられたお茶を口に入れる。なんてことない麦茶だが、氷でキンキンに冷えたそれは身に染みた。  春はもう終わりかけている。徐々に暑く、湿気が増した空気はじっとりと肌にまとわりつくようになった。そんな中でも暑苦しさを見せない彼女の後ろには、青く塗られたキャンバスが置かれている。 「今度も綺麗な青だね」  そう声をかければキャンバスを振り返り、僅かに俺の目を見て「ありがとう」と言う彼女の表情が少し和らいだ。  彼女の実家が俺の家の隣で、彼女も五年前まで実家暮らしだった。俺が十五の時にこっちへ越した隣のお姉さん――清良さんは、近所付き合いは良くも悪くもなかったが、元が綺麗なのに身なりに気を遣わなかったり、二十歳を過ぎても実家暮らしだったり、不安定な画家という職を首から下げていたり、そういう小さなことが少しずつ重なってちょっと変わった人だという噂がされていて、大人にはどうにも触れにくい存在だったようだ。  ある日、彼女が表紙の絵を描いた小説が大ヒットしていつもより少し儲かったあの夏の日、彼女は突然諸々の荷物をレンタルしたトラックに積んで、この家に引っ越した。  細い腕で荷物を積み込んでいた清良さんを呼び止め、半ば無理矢理手伝って、今もこうしてここに通っている俺は何なのかと言うと、きっと彼女にとってはどうしようもなく弟のような、そういう子どもな存在なのだろう。  けれど子どもだから、よかったのだろうとも思う。  大人に向ける彼女の笑顔はどこか上っ面で、どこか居心地が悪そうで、なんだか違和感があった。  今思い返せば、ああ、無理をしていたのだと容易にわかるくらい俺は大人になって、逆に言えばあの頃の俺はそれがわからないくらい子供だった。彼女にとってはあの頃と変わらず、きっと俺は子供のままなのだ。 「あ、今日も冷蔵庫にいろいろ入れといた。野菜が先週より安かったし良いのがあったから、できたら早く食べてね」 「いつもありがとう。大学も大変だろうし、忙しかったらいいから」 「好きで来てるんだよ。バイト代ももらってるし」  初めの頃はただ通うだけだった。誕生日とクリスマスを何回分かで頼み込んで買ってもらったばかりのロードバイクに乗るのを口実に、月に何度かここに来ては、彼女の作品を一番に見た。  そうしているうちに彼女が面倒がってあまり買い物に出ていないこととか、食事が適当なこととか、いろんなことに気付き始めて、ちょくちょく買い出しに行くようになった。  彼女はそれを困った顔で見ていたが、何を言ってもやめないことに気付いた時に、「じゃあ、バイトっていうのは?」と提案してきたのだ。  俺は苦しい言い訳もなしに定期的に会えるというそれだけが嬉しくて、二つ返事で頷いた。今はそのバイト用に、買い出し用の財布を一つ、任されている。 「大学は楽しい?」 「楽しいよ。でも放課後に遊んでるから、休みの日にわざわざ会ったりしなくてもいいんだ」  質問の意図をくみ取ってそう答えれば、彼女は少しだけ目を大きく開いてから困ったように苦笑した。そんな様子がどうしても大人に見えてしまって、俺は少し切なくなる。 「絵、描いてるところ見せてよ」  そう言うと、彼女は口元を少し緩めて椅子の向きを変え、キャンバスに向かった。  上げられた艶やかな黒い髪、細い項と、白い腕。少し猫背気味の背中の向こうで彼女の世界が描かれていくその瞬間が、俺はたまらなく好きだった。  昔から、彼女が何かを描いているのをじっと見つめていた俺を、彼女は拒まずにいてくれた。柔らかな、けれどどこか寂しい空気が俺を側から離さなかった。それを知らない清良さんは、どうして俺が彼女に会いに来るのかを不思議に思っている。  俺は大好きなその様子をしばらく見て、静かに椅子を立った。一階に下りて冷蔵庫を開け、スーパーで買い物をしていた時に考えた今日の献立を作りにかかる。これは別に頼まれたわけではないけれど、俺が来た日くらい、食事の用意のことなんて気にせずに絵を描いてほしいという、俺の勝手な親切心だ。  買ってきたばかりのアスパラガスを豚肉で巻いて、塩コショウで味付けて――彼女が好きな物を知っている自分に優越感を覚えながら、この料理の腕も、清良さんのおかげで身についたものだと、自分が彼女に作られていることを感じた。  大体の用意が終わり、後はアスパラの肉巻きに火を通すだけになっていた。  家に来たのが十五時で、用意を始めたのが十七時で、今が十八時。もう一度清良さんの様子を見ようかとも思うけれど、毎回それは思うだけで、彼女の集中を切らさないように、いつもリビングで待っている。  壁際の本棚からまだ読んだことのない本を取り出し、俺が包み込まれるくらい大きなソファに座って、テレビも何もない部屋の中に唯一ある娯楽を楽しむ。彼女を待っている時間だと思えば、読書家でない俺にもその時間はとても幸せなものなのだ。
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