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彼女のおすすめの本をゆっくりと読んでしばらく経つと、彼女が時計に視線を向けた。
「あ、七時」
「ほんとだ」
「その本、借りていくでしょ?」
「うん、お願い」
七時になったら図書室は閉室。彼女と一緒に窓の鍵が閉まっていることを確認し、カーテンをかけ、忘れ物がないか見回る。カウンターの返却日の日付を一つ後ろにしたら終わりだ。
去年の梅雨のおかげで、私は図書委員でもないのに、図書委員の仕事に詳しくなっていた。
「じゃあ、鍵を職員室に返却してくるから。また雨が降ったら」
彼女は別れ際、そんなちょっと詩的な挨拶をする。それも、一年の時からだった。
湿った空気の下駄箱からローファーを取り出し、靴を履き替える。つるつる滑りそうなタイルを、こけないようにやや慎重に歩いて、私は校舎を出た。
なんで雨が降るとドロドロになるとわかっているのに、学校の玄関ってあんなに滑るタイルなんだろう、といつも思う。年に何度か、走り回っていた男子生徒が転んでいるのを見るのだ。
外はざあざあと雨が降っている。予報通り、朝より強い。
靴下を濡らされながら、家までの道を歩く。うきうきすると同時にドキドキする。会えるかな、会えないかな。どんどんと高まっていく期待に、胸が高鳴っている。
お向かいさんで兄の同級生だった弘也くんは、兄と違って優しくて、心配性で、世話焼きな人だ。二人が学生のとき、雨の日は外だと気分がどんよりすると、よくうちに遊びに来ていた。
家に来ると彼は必ず、身体が弱くていつも家にいる私に「雨だけど体調大丈夫?」と言いながら、小さなお菓子を差し入れて、ポンポンと頭を撫でてくれる。
家族以外と接する機会が少なかった私にとって、弘也くんはとても、キラキラした存在だった。
鶏が先か、卵が先か、という言葉があるけれど、私にとっては明確で、弘也くんがいて、雨が好きな私がいる。そういう優しいだけの、ちょっと距離のある恋を、ずっとしている。
「芽依!」
後ろから、雨音と共に大好きな声。時刻は七時。会社帰りの彼の靴が、パシャパシャと水を跳ねさせながら、私のものよりも大きな傘を差して駆けてくる。
「コラ! またこんな遅くまで雨の日に出かけて」
「わー! 頭ぐしゃぐしゃしないでよー」
じゃれあいながら、こうして気にかけてもらえることを喜んでいる。心配してくれて、声をかけてくれて、変わらずに触れてくれる。
こんなふうに私がドキドキしたって変わらない。暖かくて心地いい、弘也くんの手だ。
高校生の私が、もう社会人になった弘也くんと繋がりを持つのは難しい。今も、雨の日なら、もしかしたら、と私の中のジンクスを抱えて、期待に心を上下させて。そうして彼とのわずかな繋がりに幸福を感じている。
「風邪ひくなよ」
そう言って、弘也くんは私を見送る。私が素直に家に入るまで、彼は見張るように、向かいの門を潜らずに、うちの玄関を見ている。
私は「はーい」と渋々答えて、会えた嬉しさで上がる口角を扉を振り返ることで彼から隠す。最後にもう一度彼の方に顔を向けて手を振って、笑顔で手を振り返してくれる彼にまた嬉しくなって、家の中に入る。
身体を冷やすと悪いからと、母にお風呂に追いやられながら、込み上がる笑顔が止まらない。
(今日は会えた)
しかも、頭まで撫でてもらえた。
身体をしっかり温めて、お風呂を上がってホカホカして、水気をぬぐって着替えて。夕飯を食べて、家族で食事を食べて、部屋に戻って、借りてきた本を読んで。
それでもまだ、今日の嬉しい出来事を思い出してはニヤニヤする。
明日の天気はどうだろうか。洗濯物が乾かないとお母さんがうんざりしていても、雨だったらいいな、なんて、やはりそんなふうに期待する。
雨の日は、彼と会えるかもしれない日。
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