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「ただいまー」
買い物から戻ると、私はいつもの様に部屋の奥に向かって声をかけた。
けれど、廊下の向こう側はシンと静まり返っていて何の応答も無い。
パンパンに食料品の詰まったエコバッグを両手に抱えながら肘でリビングの扉を押し開ける。
ゴミ捨て場の様に散らかったリビングの床の真ん中には、トドの様に転がる高いびきの旦那の姿があった。
ああ、やっぱり……。
リビングの床は、ミニカーやらブロックやら雑誌やら鼻をかんだティッシュやらで、買い物に行った数時間で何でこんなにも汚くなるんだろう、と思うくらいに雑然としている。
中途半端にカーテンが開かれたリビングの広い窓から差し込むオレンジ色の光が、せり出た旦那の腹をスポットライトの様に照らしている。
私は小さくため息をついた。
毎度の事だ。
颯太が即寝なのもお父さん似なのだろう。
テレビは颯太の大好きなアニメのDVDのメニュー画面が表示され、テーマソングのサビの部分がエンドレスで流れている。
颯太はどこに行ったのかな……。
私はフローリングの上に散らかっている旦那とおもちゃ達をまたぎながら、何とか和室に繋がる引き戸のところまでたどり着く。
金属製のとってを静かに横に滑らせると、和室の奥の押入れの前にかがみ込んでいた颯太が、しまったという様な顔で振り返った。
手にはピンク色のクレヨンが握られている。
嘘でしょう……。
颯太は証拠隠滅とばかりにそそくさと散らかっているクレヨンを片付け出した。
ママ友の話とかでは聞いた事があったけど、まさか年長さんになってからやられるとは……。
呆然としている私の横をすり抜けて行こうとする颯太をがしっと抱き止める。
「颯太、落書きなんてしちゃダメじゃない!」
私はそう言いながら部屋の奥にある襖を指差した。
和風っぽい柄の襖には、ピンクのクレヨンでいくつもの数字が書き込まれていた。
「ラクガキじゃないよ。一ねんせいのレンシュウだよ。おかあさん、一ねんせいのレンシュウしなさいっていってたじゃん」
颯太は開き直った様にそう言った。
「いや、言ったけど、襖に書かなくっても良いでしょ。お絵描き帳があるじゃない」
「コクバンのレンシュウだよ。おえかきチョウじゃダメだよ」
「襖は黒板じゃないんだから。そもそも襖は白でしょう!」
「いや、コクバンだってミドリじゃん」
思わず言葉を荒げてしまう私に颯太は冷ややかにそう言った。
最近颯太は言い訳が達者になってきた。それも大人びた口調で言われるので余計に腹が立つのだ。
「とにかく。こんな所に書いちゃダメなのわかるでしょ!」
ウチは賃貸なのに……どうするのよ、全く。
私はスリッパを脱いで和室に上がると、黒板代わりにされた襖に近づいて行った。
颯太がミニカーでガリガリするものだから、畳も毛羽立ってしまって靴下に引っかかる。
ある時は異世界への扉となったり、ある時は悪役代わりとなってソータマンの見事な飛び蹴りを食らって大きな凹みを二つも作ったり、と颯太にとって襖は異次元ポケットの様な存在なのだろうか……。
近づいて見てみてもピンクのクレヨンはちょっとやそっとでは落ちそうに無い。雑巾で擦れば、襖も毛羽立ってしまいそうだ。
算数の授業の真似でもしていたのだろうか、颯太の汚い字で数字が一杯書かれている。
右端の方には、山の形の様に斜線が二つ対になって描かれている。そしてその下に四角に横棒。さらにその下には、横棒二つと十字、また四角に横棒......。
「颯太、これ日にち?」
「そうだよ、きょおは八月二十日だよ」
「颯太、漢字書けるの? 凄いね!」
私が思わずそう言うと、颯太は自慢げに小さな胸を反らせてみせた。
厳密に言うと、八日二十日になっているけれど……。
「だって、もうすぐ一ねんせいだもん」
私が凄いね、凄いねと騒いでいると、旦那が真っ赤な目を擦りながらのっそりと和室にやって来た。
「うわー、颯太何やったんだよ!」
旦那の今更なセリフに、私はジットリとした視線を送り返した。
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