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「きょおね、ようちえんで、大きくなったら何になりたいかハッピョウしたんだよ。せんせーが、りゆうもちゃんといいなさい、って」
颯太は幼稚園の制服を一生懸命ハンガーにかけながらそう言った。
一年生になった時の練習の為に、自分の身支度は出来るだけ一人でやらせる様にしているのだ。
不器用な小さな手で、必死になってハンガーのクリップにズボンを挟もうとしているけれど、クリップの間にズボンはなかなか入らない。
じれったくなって、思わず手を出しそうになるけれど「我慢、我慢」と自分に言い聞かせる。
「へー。颯太は何て言ったの?」
「かがくしゃ。うちゅうのヒミツをはっけんして、ロケットをとばすんだよ」
颯太は得意げに低い鼻をツンと上に向けて見せた。
「わー、凄いね。お母さん、楽しみだな」
「おかあさんは、大きくなったら何になりたいの?」
「えっ……」
大きくなったら、って。もうこれ以上横には大きくなりたくないな……。
いや、そういう事じゃないよな……。
颯太が小学校へ上がって少ししたら、私もパートに出なきゃならなくなるんだろうな。そして、特に資格とかを持っている訳では無い私の様なごく普通の主婦だと、お掃除とか工場とかの仕事になるのかな……。
でも、それは「なりたい職業」とかでは無いし……。
「お母さんも、科学者かな」
「えー、まねっこはズルいよ」
「うーん、お母さんは今まで色々な仕事をしてきたからね……」
「すごいね! たとえば?」
颯太は下着姿のまま小さな真っ黒な瞳をキラキラと輝かせた。
Tシャツを頭から被せてやると、穴からポン、ポンっと勢いよく小さな頭と腕が飛び出してきた。
「会社員もやったし、スーパーのレジもやったし、コンビニとか、お弁当屋さんとか、カフェとか、JKとか、あと、一年生は四回もやったよ」
「四かいも! すごーい! じゃあボクは五かいをめざすよ!」
そこは目指さないで欲しいな……。
颯太にズボンを手渡すと、お喋りに夢中な彼はズボンの片方の足に両足を突っ込んでしまい、そのままゴロリと床に転がった。
「だからね、他にやってみたい職業とかはもう無いかな……。それに今は『颯太のお母さん』って仕事が凄く大変だしね……」
そう言いながら私は、床の上で身動きが取れなくなってジタバタしている颯太のズボンを引っ張ってやった。
「『おかあさん』はシゴトじゃないじゃん」
「そんな事無いよ。こんな恐竜みたいな子育てるの、凄く大変なんだからね。襖に落書きしちゃったりとかね」
颯太の頭をわしゃわしゃと撫でると、お父さん似の太くて硬い髪の毛がジョリジョリとして心地良かった。
「そんなムカシのこともちださないでよ。それにあれは、ラクガキじゃなくて、スウガクだよ」
昔って三ヶ月前の事なんだけど……。
「だからお母さんは『颯太のお母さん』っていう仕事をまだまだ続けたいな……」
そして私は颯太に、にっこりと微笑みかけてから続けた。
「理由はね、お母さんが颯太の事が大好きだからだよ」
って、あれっ?
私の脳内の脚本では、颯太が「僕も大好き」って言って、親子が二人ひしっと抱き合って感動的なエンディングを迎える筈だったんだけど……。
颯太を抱き止めようと、大きく広げた両手が虚しく空を掴む。
「……」
颯太は冷ややかな視線を私に投げつけると、何事もなかったかの様に、最近ハマっているカードゲームを床に広げ始めた。
ふいにバサリとレースのカーテンが大きく翻った。強く激しい風が、賃貸マンションの狭い部屋をざーっと吹き抜けていく。
そういえば、颯太が生まれて初めて産院から出た時も、こんな風に急に強い風が吹いた。
産院の自動扉を抜けて、久しぶりの外の空気に、私が深呼吸しようとしたその瞬間、颯然と世界が揺れたんだ。
街路樹の枝は突然の強い風に大きくたわみ、まだかろうじて緑を保っていた葉を辺りに散らしていた。
通りを歩く人々は、突然の強い風に小さな声を上げると、それぞれの荷物だとかスカートだとか髪の毛だとかを飛ばされない様に必死になって押さえていた。
まだ抱っこに不慣れだった私は、思わず生まれたばかりの赤ん坊を抱く腕に力が入ってしまって、慌てたのを覚えている。
産院の中は常に暖かくて何だかモワモワして柔らかだった。たった五日だったけれど、久々に触れた外の世界は思っていた以上に躍動的で、私は軽いカルチャーショックすら覚えたものだった。
それなのに私の腕の中の小さな赤ん坊は、ごうっという大きな音にも、騒々しい外の空気の振動にも驚くどころか、ずっとすやすやと眠っていて、旦那と二人で、
「こいつは将来大物になるなぁ」
なんて笑ったものだった。
大物になったのかどうかはまだわからないけれど、颯太が思っていたよりもずっと早くこのままどんどんと先へ先へと駆け抜けて行ってしまいそうな、そんな気がしてきて、今はまだ小さい背中をぎゅっと抱きしめた。
強い空気の流れが、メタリックに輝くいかにも強そうなカードを空中に舞上げる。
「ああ! ボクのスーパーメガキングEXが!」
颯太は最強のカードを追いかけて行こうとするけれど、もう抱っこなんてお手の物になった私は、抱き留める手を緩めない。
風に乗ってどこからか、ランドセルのCMの軽やかなマーチのリズムが聞こえてくる。
「ふははははっ」
腕の中でジタバタと暴れる小さい恐竜を抱きしめながら、私は意地悪く笑った。
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