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 ぼんやりとした薄闇の中を手探りで進んで行く。視覚からの情報が無いというだけで、こんなにも人間の感覚というものが不明瞭になるものなのだろうか。前後左右、上下すらの距離感も朧げになっていく。何者かによって自分自身を含めた全ての物が無意味に引き伸ばされて、膨張し続ける空間の中を行けども行けども永遠に目的地にたどり着けない様な、そんな感覚に陥っていく。  それでも目が慣れるに連れ、それぞれの境界は曖昧ではあるれど何となく目の前にある物の感覚が蘇ってきた。目の前に広がっているのは、膨張し続ける宇宙空間でも何でもなくて、いつも見慣れている筈のいつもの場所だ。何も無いと思っていた空間も、両手を軽く横に動かしただけで、使用感たっぷりのザラザラとした壁紙に触れる事ができる。両足を支えているのは、表面だけ貼り付けた様な薄っぺらなフローリングだ。  私は物音を立てない様にそろりそろりと慎重に足を運んで行く。  どんなに注意をしていても、時折ギシリという床板を踏む音が小さく鳴ってしまい、私はその度にギクリとして立ち止まる。  全神経をその先の扉に向けて何事も起こらない事を確認すると、私は又ゆっくりと一歩を踏み出した。   「何やってるの?」  場違いな程にのほほんとした旦那の声と共に、リビングの明るいLEDの光が狭い廊下に差し込んできた。  私は思わず「ひいっ」と言ってしまいそうになるのを何とか抑えると、人差し指を唇の前に当て「静かに」という合図と共に旦那に鋭い眼差しを向ける。  彼は大袈裟に肩をすくめて見せると、大きなため息をついた。  欧米人かよ、とツッコミたくなるのを我慢すると、私は再び扉の向こうに神経を集中させた。  大丈夫、何も聞こえてこない。  旦那がリビングの扉を閉めると廊下はまた暗闇に包まれる。  私は物音を立てない様にゆっくりとかがみ込むと、合板の扉にピッタリと耳を当てた。  旦那がテレビをつけたらしい、遠くから何だか賑やかな笑い声が聞こえてくる。  こんな時に、呑気なもんだよな……。  扉の向こう側は相変わらずシンと静まり返ったままで、僅かな物音すらも聞こえてこない。  番組が終了したのだろうか、CMの明るい音楽が流れてきた。  軽快なマーチのリズムに合わせて犬のぬいぐるみと子役の女の子が、楽しそうにダンスを踊る。そう、これは確かランドセルのCMだ。  いつもならリビングで旦那がゴロゴロしながらテレビを見ていてもあまり気にならないのだけど、視界が曖昧な分、聴覚が研ぎ澄まされるものなのだろうか、扉一つ隔てた向こうの賑やかな音がやけに耳につく。楽しそうなマーチのリズムに可愛らしい女の子の歌声がのっている。  CMが終わっても、何故だか規則正しく繰り返されるドラムの音だけが耳に残る……。  いや......低くゆっくりとしたテンポで繰り返されるこの音は……。  カチャリと音がしない様ゆっくりと扉のレバーを下げると、静かに合板の板を向こう側に押す。    そこには気持ち良さそうに寝息をたてて転がる我が息子、颯太の姿があった。    ……早過ぎでしょ。    今日は、もうすぐ幼稚園で行われる「お泊まり保育」に向けてトレーニングしてきた「一人で寝る練習」の最終段階の日だった。  今までは寝室にしている和室で家族三人、川の字で寝ていたのだけど、それをまずは私と颯太と二人で子供部屋へ移動し、その次は寝かしつけだけ、その次は絵本の読み聞かせだけ、そして今日……。  颯太は「おやすみなさい」と言うと一人で意気揚々とリビングを出て行ったのだ。  それもほんの五分程前……。  絶対、半ベソをかきながら「ご本読んで」ってリビングに戻ってくるか、子供部屋から泣き声が聞こえてくるかだと思っていたのに……。    何だか寂しいじゃないか……。    私は寝相の悪い颯太のお腹に熊ちゃん柄の布団をかけてやると、おもちの様に柔らかな頬っぺたをプニプニとつまんでやった。  
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