【序章】

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【序章】

 鏡に向かって大きく口をあける。詰め物だらけの美しくない歯たちが整列している。その詰め物は、あのヒトの道具を修理するための道具であって、歯の矯正装置もまた、あのヒトの道具を修理するための道具に過ぎない。  甘いものは極力控え、着色料の入った食べ物は絶対に口にしてはいけないと、あのヒトは道具に対し厳しく接したが、肝心の道具は、そのヒトに仕上げの歯磨きというものをしてもらった記憶がない。  けれどもそのヒトは、道具の前歯が虫歯になったときには、保険の利かないセラミック製の白い差し歯を入れるよう強要した。矯正治療だけでも大変な金額がかかったのに、差し歯1本に9万円もかかったわよと、ネチネチ文句を言われたけれど、そのヒトの道具は寝しなにこっそりガムを噛むのをやめられなかった。  歯を修理する際には痛みが伴う。またあの痛みに耐えなければならないという恐怖心はあったが、それでもなお、道具は寝しなにガムを噛むという行為をやめられなかった。口にモノを入れていれば、自分にとって足りない何ものかを補うことができるということを、道具はいつのまにか覚えてしまったからだ。
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