3.同情こそが狂気

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3.同情こそが狂気

 あと1週間で11月になる。あの恐ろしい面談日からちょうど1ヶ月が過ぎていた。すっかり勉強に身が入らなくなっていた私は、定期テストの勉強はおろか、受験勉強も手つかずの状態にあった。このままいくと、志望校のランクをふたつ下げても合格するかはわからない。けれども、それならそれでかまわないという消極的な考えが、ときどき空中を浮遊する「分断された私」の中に芽生え始めていた。  それでもあのヒトは、第1志望校に手が届く可能性がわずかにでもあるのならと、心のどこかで期待を捨て切れていないのか、9月の面談以降も私に通塾することを強要し、磨いても磨いても輝くことのないゴミ同然の道具に無駄な投資を続けていた。  7時半で終わるはずの授業が押してしまい、塾を出たのは8時を少し過ぎていた。私はいつものように、地下鉄の駅に向かって公園の遊歩道を歩いていた。塾に来るとき降っていた小雨はやんでいたが、石畳は水気を帯びていて、風が吹いても地面に散らばっていた葉や小枝やゴミ屑はほとんど動かない。じっとりと湿った空気に覆われている夜の公園の人影はまばらだった。  勉強は嫌だったが、塾に行くために家を出るときはいつも足が軽い。それなのに、塾から家に帰るときの足は重く、磁石でできた地面のうえを、鉄の靴でも履いて歩いているみたいに鈍い動きしか見せなかった。  1ヶ月前、あのヒトにひどい目に遭わされた場所までたどり着いた。脳裏にこびりついている場面が鮮明に浮かびあがる。立ちどまって空を見上げると、濃く染まった街路樹の葉陰によって、でこぼこに切り取られた空間には月も星もなく、街灯と時計塔の明かりがひっそりと灯っていた。球形の摺りガラスの周辺をちらちらと飛んでいる数羽の蛾と自分だけが、静まり返った闇の中に生動していて、正真正銘の夜の中に取り残されてしまったみたいだった。  すうっと背中に冷たい風が当たった。もたもたと立ちどまっている私を追い払おうとでもしているみたいな冷たい風だった。私はふたたび重たい足を1歩踏み出し、まるで地べたを這いずるような感覚で前に進んでいた。  するうち、地下鉄の入口が見えてきた。7、8メートルほど先の信号は青だった。中学生の足ならば、走れば十分にまにあいそうな距離だったけれど、今の私には走る気もなければ、実際、走ることも無理であり、たとえ走ることができたとしても、それは無駄な行為にしか感じられなかった。  そのとき、私の横をものすごい勢いで駆け抜けて行く黒い影があった。信号が赤に変わるのとほとんど同時に、その人影は道路の向こう側にたどり着いていて、私もまた、横断歩道の手前までたどり着いていた。  背格好に見覚えがあった。すらっとした体型にゆるくうねった黒い髪。その人の顔がこちら側に向いた。速度はゆるめているものの、依然として前に進み続けているその人は、耳の横あたりにあげた右手を後ろに振っている。私はその姿を見て、黄色いペットボトルを差し出してくれたあの男子だと確信した。  礼を口にすることなく立ち去った私に対し、何ら負の感情も抱いていないのだろうか。もしも私が彼の立場だったら、振り向きもせずに、まっすぐ前に突き進んで行ったに違いない。  私にはやはり、あの男子の生態が理解できなかった。レモンティーを受け取ってしまったことを後悔しないでもなかった。あのとき、なぜ、涙があふれ出しそうになったのか、理由はわからなかったけれど、1ヶ月たった今、改めて思い返してみても、やはり理由はわからないままだった。
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