3.同情こそが狂気

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 私は地下鉄に乗り、3駅先で降りた。あのヒトの宝箱であるマンションは最寄駅から歩いて5分ほどのところにある。私は片側2車線の国道沿いの歩道をマンションに向かって歩いていた。  ファミレスやコンビニ、牛丼屋やピザ屋、カラオケボックスにパチンコ店、それらの照明が煌々としていて、地下鉄に乗る前に歩いていた公園の遊歩道とは対照的に、いつでもこの場所は夜を感じさせない昼間のような景色が広がっているが、私にとってこの景色は、ドラマの撮影現場のように、人工的に作り出された賑やかな箱庭に過ぎない。ただ脳を欺いて、闇を隠しているだけで、夜は夜であることに変わりはない。  それどころか、今の私にとっては、空が明るくて、どんなに太陽が燦燦と輝いていても、世界はいつも闇だった。24時間、私を取り巻く世界は夜と同じ暗さしかない。これから、あの(いびつ)な空間に入るためのドアをあけて、重苦しい空気が漂う箱の中で軽めの夜食を取り、体を清めるためというよりも、そうしないといけない雰囲気に飲み込まれてしまうから、機械的に入浴をし、たとえ眠気がなくても布団に入り、訪れるかどうかもわからない明日という日に備えて、一時的に脳の活動を抹殺する「睡眠」という行為を強要される。数時間後に訪れる目覚めは、私にとっての地獄かも知れず、カーテンから差し込むひと筋の光を見ても、私の目はそれを朝だと認識しない。世間が朝を迎えても、私に朝は訪れない。どんなに明るい朝陽であっても、私にとっては雨模様の夕空と同じぐらいの価値しか持たない。  私の時間はのっぺりしている。墨汁が塗られためん棒で、薄くのばされたビスケットの生地みたいに、平坦で均一に薄暗く脆弱で、ちょっとした衝撃によって、簡単に破壊されてしまいそうだった。  最後の横断歩道で信号に引っかかった。国道を挟んだ向こう側の歩道を何気なく見つめていると、あと数十歩進めばたどり着いてしまう「歪な宝箱」の(はす)前に建っているマンションの入口に、あの黒い背中があった。エントランスのガラスが両側にひらくと、その背中は消えていった。  私はぼうっとレンガ色のマンションを見あげていった。それは「歪な宝箱」の中にある、壊れかけの道具をしまうための檻の目の前に建っているというのに、6階建であることを今初めて知った。  レモンティーをくれたあの人は、レンガ色の四角い箱のどこかにいる。そう思うと不思議な感じがしたが、それ以上の感慨はわいてこなかった。朝と夜とを正確に区分けできるような、「普通」の女子中学生であったならば、これを「運命」だとか騒ぎ立てるのかもしれない。けれども、私は「普通」の女子中学生なんかではなく、女子中学生という仮面をかぶった、用済みの「道具」に過ぎない。いつ廃棄処分されてもおかしくないゴミ同然の、人間のふりをした「物」でしかない。  気づけば、信号は青に変わっていた。渡りながら思った。別に待つ必要なんてなかったのではないかと。  直進する車も国道へと曲がる車もほとんど来ないような細い道路だったから、信号がなくてもたいして危険はなさそうだった。だから、無視したところで、私を破壊してくれる凶器に遭遇する可能性は高くはない、はずだった……。  が、今年の1月頃から、この歩道のすぐ脇にあるガードレールの支柱に赤いカーネーションが添えられていた。誰が誰に手向けた花なのか、誰が誰を破壊したのか、私には知る由もなかったが、その花は今、しおれかかっている。  仮に誰かがこの場所で私を破壊したとしても、このガードレールの支柱は赤や緑に染まることなく、白いままの姿でい続けるのだろう。犬や猫が破壊されても、破壊した人は器物損壊の罪にしか問われないのだという。彼らの中には本物の血が流れているというのに、物と同等に扱われてしまうのが、ひどく気の毒に思えた。  私は物だから、私は血を持っていない。私の中に流れている赤いものは、血ではない他の何かだ。たとえば、排水管に流されていく赤い絵具で色づいた水、もしくは、賞味期限が切れてしまったかき氷の赤いシロップのような液体と同じなのだ。だから、私が壊されても、壊した人に殺人の罪を背負わせてはいけない。もしかすると、器物損壊の罪を背負わせることも相応しくない。私は守られるべき人や動物や物ではなく、いつ廃棄されてもおかしくない物に過ぎないのだから。
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