4.不純で純粋で単純な動機

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4.不純で純粋で単純な動機

 レモンティーを私に与えた男子が向かいのマンションに住んでいるのを知ってから20日ほど過ぎていた。外は雲ひとつない青空が広がっていた。土曜日で学校が休みだったから、私は洗顔や歯磨き、トイレや食事の時間を除き、ずっと檻の中で過ごしていた。  昼食を済ませ勉強机についてから、かれこれ2時間近くたつというのに、ペンはいっこうに動かず、午前中からひらかれている問題集のページは空白のままだ。  私は頬杖をついて、ぼんやりと窓の外に顔を向け、レンガ色のマンションの様子を眺めていた。向かって右側の、2階の角部屋のバルコニーでは、午前中に干された真っ白い2組の布団が取り込まれているところだった。その斜め上のバルコニーでは、若い女性が植木の手入れをしている。5階の中央あたりのバルコニーでは、年配の男性が煙草を吸っているところだった。そして、向かっていちばん左側に位置する最上階のルーフバルコニーでは、ダンベル体操をしている若い男性の姿があった。  勉強机に座っていても、気持ちは勉強に向いてくれず、左目の視界の隅にレンガ色の建物が常にちらついていた。夜、布団に入る前に閉める紺色の厚手のカーテンを引いてみても、私の体の左側にはレンガ色の建物の気配が感じられ、教材に向かっていてもやるべきことに集中できない。気にしないようにしようとすればするほど、その存在が気になってしまうという悪循環の中に私はいた。  鍵のかかっていない檻の中に軟禁されているはずの私は、監視されている立場だというのに、いつのまに、レンガ色の箱の中にいる住人を監視するようになっていたのだ。  私は既に気づいていた。レモンティーの彼の箱がどこなのかということについて。  10畳近くありそうなルーフバルコニーは、ちょうどL字型の建物の塀で囲まれるかたちになっていて、彼はそこでのトレーニングがひととおり終わると、ランニングに出かける。ランニングから戻ってくると、ルーフバルコニーの向こう側にある窓が光るから、その場所が彼の箱だと推測できた。  平日はたいてい、午後6時半から7時のあいだにランニングに出かける。塾のない日にその時間帯に黒いジャージを着てマンションを出ていく姿を何度か目撃していた。今日は土曜日だから、先週と同じように、いつもよりも3時間ほど早く走り始めるのだろう。  レモンティーの彼については、それ以上のことは知らない。おそらくは中学生か高校生なのだろうが、実際の年齢も、どこの学校へ通っているのかも、もちろん、名前も知らなかった。仮に中学生であったとしても、国道の向こう側は学区が違うから、学年を確かめることもできない。私立中学に通っている場合はなおさらだ。  ただ、ひとつだけ確かなのは、登下校の時間帯が完全に私とは異なるということだった。高校生や私立の中学生であれば、電車やバスを使って登校することがほとんどだろうから、公立中学に通う私よりも早く家を出ることになるだろうし、仮に近隣の学校に通っていたとしても、運動部に入っていれば朝練だってある。いずれにしても、私は、彼が制服を着ている姿を見たことはまだ一度もなかった。  もっとも、彼のいろいろを知ったところでどうなるものでもないことは承知していた。彼が何者であろうが、何という名前を持っていようが、物である私にとっては一切関係のない話だ。  けれども、私はただひとつだけ、確かめてみたいことがあった。自分の領域に踏み込んで欲しくないと思う一方で、彼の行動を気にしてしまう背景にはそういった事情があったのだ。
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