4.不純で純粋で単純な動機

3/5
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/108ページ
 その日以降、「表向きの私」と「浮遊する私」は、別個に存在するという自覚を持つようになった。あくまで「体」という「器」はひとつしか持たない私たちだったが、決して一体化することも融合することもなく、ただ「器」の内側で、分業しつつ協調態勢を取ることでバランスを保っていた。  ひとつの「チーム」である私たちは、学ラン姿のレモンティーの彼を見て以降、無気力から遠ざかり、学校でも塾でも檻の中でも、死に物狂いで勉強に取り組むようになった。何としてでも、どんな手段を使ってでも、第1志望校に合格したかった。それが唯一の目標だった。だから、たとえ破裂しそうになるほど頭がパンパンになっても、知識を詰め込もうと努力した。1分1秒が無駄にできない時間に感じられた。檻の中から窓の外を眺めている時間も惜しいから、「表向きの私」と「浮遊する私」は役割分担をしていた。「浮遊する私」はただ、レンガ色の気配を左側に感じるにとどめて、「表向きの私」は問題集の空白を次々と埋めてくことに励んだ。比例するように、成績はめきめきとあがっていった。  翌年の1月中旬、最終的に志望校を決める段になったとき、第1志望校を受験することに塾長や担任からOKサインが出た。およそ2ヶ月間、死に物狂いで取り組んだ成果が、結果としてあらわれた。あのヒトはそれを聞いて泣いて喜んでいた。まだ、合格を勝ち取ったわけでもないのに、バカみたいに大声を出し、喜び勇んであの公園の遊歩道を闊歩していた。自身が「ママ友」だと思い込んでいるママたちに対し、電話やラインを通して、言葉尻では謙遜しつつも連日のように自慢話を繰り返していた。  もちろん、私も喜んでいた。でもそれは、あのヒトに喜びを与えることができたからではなく、「浮遊する私」に喜びを与えることができたからだ。私は私自身のために喜びを生み出した。喜びは自分のためにあることを初めて知ったのだ。  そして私は、喜びを作り出す材料はいくらでも転がっていることに気づき始めていた。そのことが嬉しかった。これまでの「浮遊する私」は、「表向きの私」が感じている悲しみや苦しみを封じ込め、抜け殻になった「表向きの私」を俯瞰することしかできず、どっちの私も、喜びや嬉しさを共有することはかなわなかった。だから、この感覚は私たちにとって新鮮で画期的なものだった。  志望校を決定する動機なんて不純だと思われてもかまわない。私たちにとって純粋でありさえすればそれでいい。ふたりの意思は全く同じだった。  私たちはもう、あのヒトの道具であることから抜け出したかった。第1志望校に合格することは、そのための第1歩だ。私たちは分断したままだったけれど、互いにその点で意見が食い違うことはなかった。
/108ページ

最初のコメントを投稿しよう!