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私たちは恋をしているわけでもなかったし、恋をしたいわけでもなかった。もちろん、告白をするつもりもないし、ましてや交際などとは無縁でかまわなかった。しゃべりたいとさえ思っていない。
私たちはただ、できる限りレモンティーの彼のそばにいて、彼の生態を観察したいだけなのだ。観察しているうちにきっと、知ることができると思ったから。彼が私たちにレモンティーを与えた理由を――
あのヒトに罵倒されていたあのとき、彼の目には「表向きの私」が物として映っていたのか、そうでないのか、ただ単純にそれが知りたかっただけなのだ。
学校の友達や先生、塾の関係者やバレエの講師、近所の人たち、そしてママ友たちの目には、私がどんなふうに映っているのだろうかと考えたことがないわけではなかった。それぞれが、それぞれの立場で無難に、当たり障りなく接してくれてはいる。
でも、レモンティーの彼のように、突然、私たちの心の中に土足で踏み込んで来るような人は、これまでのあいだ、誰一人として存在しなかった、というよりも、記憶として残っている人はいなかった。近くにいるのに、どこか遠いところにいる人たちばかりなのだ。
唯一近くにいると感じさせる「母」という肩書を持った女は、私の心の中に土足で踏み込んでくるというよりもむしろ、道具としての私を土足で踏みつける。そして、「父」という肩書を持つ男は、私という存在を視界の中に入れようとしない。たぶん、意識的に。同じ歪な箱の中にいるのに、その男にとって私の存在は無に等しい。
千葉の房総に住んでいるおじいちゃんは、その男よりも関係性が少し遠いのに、心の距離感ははるかに近いのが不思議だった。
小学4年のあの事件があった日、「父」はこの歪な箱の中に確かにいたはずだった。でも、洗面所にあらわれることもなかったし、翌朝、顔を合わせても、何事もなかったかのような顔つきで、仕事に出かけていった。彼はこの歪な箱の中にあるATMに徹しているのかもしれないが、私は今にも潰れてしまいそうなおんぼろな箱でもかまわないから、そんな機械に徹して欲しくなんてなかった。……ほんの数ヶ月前までの私は。
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