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私はその日以降、私の心に従順になって、レンガ色の箱に住む彼の生態観察を始めていた。彼は相変わらず、ルーフバルコニーでトレーニングを行うと、すぐにランニングに出かけて行った。彼の住む箱の番号は概ね想像がついていたが、レンガ色のマンションはオートロックだったので、ポストに表札が掲げられているのかも含めて、苗字を確かめることさえかなわなかった。
でも、私は焦っていなかった。というのも、「大城高校」という名の箱の中で、2年間も彼と一緒に過ごすことができるのだから。
1年生の校章の色が赤色なのは当然知っていた。指定バックの校章が赤色だったのは、彼の制服姿を初めて見たときに確認していた。だから、彼は今度、2年生に進級するのは間違いなかった。
入学式の翌日、セーラー服姿の私は、深緑色の校章がついた指定バックを肩にかけて彼がマンションを出る時間に合わせて家を出た。「母」は私に先立ち、玄関の扉を開けエレベーターの前までついてきて私を送り出した。
国道沿いの歩道を、中学校とは反対方面に歩き出そうとしたとき、「踏子ちゃん、気をつけて行ってらっしゃい!」という弾んだ声が上空から聞こえてきた。国道の向かい側を歩く彼の背中だけに意識を向け、目を凝らしていた私は、ぎょっとして上を見ると3階のバルコニーから満面の笑みを浮かべてあのヒトが手を振っていた。
エレベーターから廊下を抜け、玄関の鍵もかけずにバルコニーまで小走りしているあのヒトの姿がありありと目に浮かんで、背中に悪寒が走ったが、見上げてしまった以上、無視するわけにもいかないので、私はあのヒトのことを顔見知りのご近所さんだと見立てて、「行ってきます」と声にして、常識に反しない行動をとった。
私は「素敵な母親役」を演じている女に向かって手を振りながら、
「ばいばい、家族ごっこ」
と、小声で付け加えた。
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