6.お願い、受からないで!

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 彼がレモンティーを手渡してくれた直前、私は分断し、片方の私は浮遊して、もう片方の私を罵る「母」と罵られている私の横を通り過ぎていく彼を、高いところから見ていた。  けれども、私はもう分断しなくなった。私たちは一体化したから。でも、今なら分断してもいい、そう思える。浮遊する私は、彼の箱の中に飛んでゆき、天井から眠っている彼の姿を眺めてみたい。ぴったりとまぶたを閉じた彼の寝顔をこの目の中に焼きつけたい。  ――できることなら、あのときよりも、自由に、自分が望む空間を飛びまわることができたらいいのになあ。  もっともっと走って、もっともっと速くなって、心も体ももっともっと強くなって、特殊な技能を身につけて、選ばれた人間しかなせない何かを獲得し、彼に気づかれないように彼に近づきたい。たとえば、(はね)を持った小さな虫とか、彼の箱の天井にある照明という道具でもかまわないから、限りなく彼に近い場所に身を置くことのできる何かに変身できればいいのに。もっと贅沢を言ってしまえば、扉やガラスの隙間をすり抜けることができるぐらい薄くなることのできる身体で、彼の箱の中を、彼のいる教室の中を、彼が走る公園の遊歩道をひらひらと浮遊したいと思った。  私は彼にまつわる荒唐無稽なあれこれを想像しながら、草いきれのする川べりの散歩道や人通りの少ない国道の裏道を通って、目的地まで駆け抜ける。ターミナル駅のトイレで着替えを済ませ、歪な箱の最寄り駅まで電車に乗って帰る。何食わぬ顔をして歪な箱の中に入り、軽くシャワーを浴びてから勉強机に向かい、あるいは塾へと足を運び、3人で夕食を済ませ、入浴し、歯を磨き、彼と同じタイミングで照明を落とし、就寝し、翌朝また、「母」に見送られながら高校へと向かい、淡々と日常生活を繰り返していく。「母」にとって私という存在は、絵に描いたような「優等生」のままだが、私という人間の実態は「生態観察」という名のもとに、蒼井くんを監視することに明け暮れるストーカーのような存在になっていた。  でも、私は彼に迷惑をかけたくなかった。だから、絶対に「生態観察」のことを悟られてはならないのだ。このスリルもまた、私を興奮させた。私は学校生活が楽しかった。私専用の箱の中での生活ももちろん楽しかった。一生、こんな生活ができたらどんなにいいだろうと、常々思っていた。だから私は、高校卒業後の彼の進路がとても気になっていた。できれば彼と同じ進路を歩んで行きたかったから。けれども、学年が違うのでなかなかそういった情報は入手できなかった。  彼には通塾している様子はなかったが、「めっちゃ頭いい」という話だったから、もしかすると、独学で大学進学を乗り切るつもりなのかもしれないとも思っていた。そんな矢先のことだった。  サラサラ髪の男子と廊下を歩いている彼の4、5メートルほど後ろを歩いていた私の耳に、 「ニジシケンの結果、まだ出ないの? もう7月に入ったのにさ」  と、質問するサラサラ髪の男子の声が届いた。 「もうすぐだと思うけど、どうなるかなあ」  笑いを含んだ蒼井くんの声は「どうなっても別にかまわない」というように軽く響いていたが、私は紺色の学ランの背中に一瞬走った、震えるような緊張の線を見逃さなかった。 「ニジシケンの結果」と聞いて思い当たるのは、英検か何かの資格試験だった。だから私はそこから推測して、彼が推薦での進学を狙っているのかもしれないとも考えた。資格を取得していれば多少なりとも有利に働くだろうし、生徒会活動をしているくらいだから、そういう手段を使っても不思議ではない。  ――そんな推測をしていたときだった。 「でも、もし受かったら、9月からヨウセイジョ入りなんだろ?」  サラサラ髪の男子の声は神妙で、蒼井くんを見上げるその横顔は真剣そのものだった。 「まあ、受かったらそうなるけど……」 「そっか。そうなったら夏休み明けにはもう、蒼井、ここにいないんだな……」  ふたりのあいだに、しんみりとした空気が流れていた。 「そういうことになるね。ヨウセイジョはカンヅメだから、学校との両立は無理なんだよ」  私は最初「ヨウセイジョ」と「カンヅメ」という響きを聞いて、すぐに漢字変換できなかったが、彼らの会話を聞いているうちに、それが「養成所」であり「缶詰」であることがわかった。 「それにしてもまさかさ、お前みたいに頭イイ奴が中退してまで、オートレーサーになりたいって思ってたなんて、オレ、いまだに信じらんねえんだよなあ」
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