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オート、……レーサー。
「母」の嫌うあの音が――私の箱の中に聞こえてくるあの独特のエンジン音が、頭の中に流れた。小学5年のあの日、おじいちゃんと一緒に見た左右ハンドルの高さが異なるブレーキのないバイクを操る人たちの姿がありありと瞼の裏側に甦った。
彼はどうしてそこを目指すのか、そこを目指すために体を鍛え、ランニングに励んでいたのか、ならばどうして来る日も来る日も読書に勤しむのか、大城高校に合格できるだけの学力があったというのに、今もなお「頭イイ奴」だと言われているのに、どうして中退してまでそれになろうとするのか、やっとあなたに近づくことができたというのに、生態観察クラブが本格的に始動し始めたばかりだというのに、どうしてこんなにも早く、私のそばからいなくなってしまうのか、レモンティーを私に与えた理由が解けないままに、どうして離れていってしまうの?
瞬時にこれだけの疑問が頭の中にわいてきて、ぐるぐると渦を巻いていた。
彼が読み終えた本を次に私が読む。彼の目が追っていたはずの一文字一文字を丁寧にたどり、ページを手繰る。本を借りるときや返却するときの司書の女性とのやり取りを遠巻きに眺める。ときには、2年6組の廊下の前を通り過ぎる。廊下の掲示板に貼られている、英単語テストや漢字テストの順位がいつでもいちばん上にあることが、自分のことのように嬉しかった。先をゆく彼のあとについて、こっそりとその背中を見つめ、友達と談笑する彼の声に耳をすませる。下駄箱の「蒼井純一」という文字を毎日目にとどめる。グラウンドで運動をする体操着姿の彼を、授業中こっそりと横目に入れる。学校集会や体育祭のとき、きびきびと動きまわる彼の仕事ぶりに感心する。学食で見たきれいな箸の持ち方に感化され、クロス箸を自力で直そうと努力した。私の入学する前にとったのであろう、金賞という称号が与えられた書初めの文字。『乾坤一擲』と大胆に書かれたその文字は職員室の前を通るたびに、見とれてしまう美しさだった。朝は彼と同じ電車に乗り、帰りは一緒の電車に乗ったり、あるいは彼を思いながら、大城高校に入学する前までは知らなかった道を一歩一歩踏みしめて走っていった。一秒でも早く、彼の速度に近づけるように、走っていたのだ。私は些細なことにいちいち感動し、感激し、影響された。日常が喜びにあふれていた。こんなにも充実した日々が訪れることなど、想像していなかった。そして、こんな平和な日常が、もうすぐ終わってしまうかもしれないこともまた、想像していなかった。少なくともあと1年と7ヶ月は続くものだと思い込んでいた……。
――お願い、受からないで!
私は祈るような気持ちで、ただ彼の背中を見つめることしかできなかった。
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