【第2章】1.消えた名前

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 夏休みが明けた。2年6組の下駄箱から「蒼井純一」の文字はなくなっていた。彼はとうとう、遠いところに行ってしまった。退学した彼は、三重県の鈴鹿にあるオートレーサーの養成所に行ってしまった。そこで、9ヶ月という期間、“缶詰状態”にされてしまう。  彼が解放されるまでのあいだ、ルーフバルコニーの向こう側にある箱の灯りがつくこともなければ、筋トレをしたり、ランニングに出かける姿を見ることもできない。こっそりと声を聞いたり、朝の通学電車の中で彼をちらちらと視界に入れることもできない。そして、彼が読み終えた本を読むという行為も、もちろんかなわなくなってしまった。  おおむねそうなることを予想していた。だからこそ私は、夏休みの半ばからその環境に慣れるように訓練してきたのだ。  ……が、(きた)るべきときに備えて着々と準備してきたというのに、どうしてなのだろう、いざそうなると、急に淋しさが込みあげてきた。訓練の効果がまるで出ていないことを痛感した。  とにかく私は、物理的に遠くに行ってしまった彼という存在を、精神的にも遠ざけなければならなかった。だから私は、学校からターミナル駅までの道のりをランニングすることもなくなっていた。彼が乗っていたのと同じ電車を使う理由も必要性もなくなったというのもあるが、彼の影を完全に消去するために、家を出る時間をあえて統一しなくなった。職員室の前には『乾坤一擲』という美しい文字が残されたままだったから、なるべく職員室には行かないようにした。  そして何より、彼の思い出が色濃く沁みついている図書室は禁断の地になっていた。彼のいない図書室は、かわいがっていた鳥が逃げ出してしまったあとの鳥かご同然だ。誕生日のケーキを食べ尽くしてしまったあとの空箱と変わらない不用品に過ぎない。もう借りたい本はなかった。でも、返したくない本はあった。
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