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彼が最後に図書室で借りた『空を泳ぐ』というタイトルの、いろいろな作家の短編を収録した小説を、10月も半ばを過ぎているというのに、私はまだ返却していない。夏休みのあいだは、2週間の貸出期間が特例的になくなり、返却は新学期が始まってからでよいことになっていたが、その代わりに延長申請は認められず、2週間たたないと再びその本を借りることができない決まりになっていた。
精神的に彼の存在を遠ざけなければならないはずなのに、私は迷っていた。矛盾するようだが、もしも、その2週間のあいだに誰かにその本を借りられてしまったら、彼と私とをつなぐ唯一の見えない絆のようなものが、断ち切られてしまうような気がしたからだ。彼の指先のぬくもりや体液が、その本を構成する紙の1枚1枚に沁み込んでいるような気がして、それをずっと手元に置いておきたいと、私は強く思っていた。
けれども、残酷なことに、夏休み明けの1週間後、担任を介して本を返すように言われた。その翌週も、翌々週も同じように催促された。それでも私は本を手放すことができないでいた。何度催促されても、その本を1度手放してしまったら、彼とのわずかなつながりを、永遠に奪われてしまうような気がして、返すことができなかったのだ。
そして今日、とうとう司書本人から直接催促を受けた。不思議なことに、私はこれまでは考えてもみなかったことをふっと思いついた。そして口走っていた――
「すみません。あの本、実は失くしてしまったんです。今日中に同じ本を買って、明日必ず持ってくるので! 本当にすみません。今後は気をつけます」
一気に言い放ち、深く頭をさげた私に対し、司書は「どうして早く言わなかったの」と言ったので、「探していたんです……」とまた嘘を重ねた。
そんな私に司書は「しょうがないわね」というような顔つきをして、小さくため息をついたが、これまで返却期間をきっちり守ってきたこともあってか、穏便にことをすませてくれた。
こうして私は、彼の姿を目に入れることができなくなっても、間接的に彼と触れ合うことができる手段を手に入れたのだ。
学校の帰りに、新しい『空を泳ぐ』を買った私は、図書室の管理シールが貼りついたままの、彼のぬくもりと体液が沁みついたその本を常に手元に置いて、彼が戻ってくるまでの9ヶ月間を乗り切るつもりで帰宅した。灯りのともらない彼の箱を虚しく見つめてから、私は紺色のカーテンを閉め、照明を落として布団に入る。淋しいという気持ちは、養成所の宿舎で横になっている彼の姿を想像し、『空を泳ぐ』を抱きしめることによって埋めるしかなかった。
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