【第2章】1.消えた名前

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 ようやく4ヶ月がたった。大晦日の夜のこと、初めて彼と出会った中3のあの日からのことを振り返っていたら、『空を泳ぐ』の表紙のうえに涙がぽつんと落ちた。年が明けてもまだ、5ヶ月間は待たなくてはならないのだという思いが、さらに私を悲しみの中に陥れた。  今にも張り裂けそうな心をなだめるように、私はレースカーテン越しにレンガ色のマンションを見つめながら、薄暗い箱の中で除夜の鐘の音を聞いていた。私は今年最後の夜、紺色のカーテンを開けたまま眠りについた。  行動をともにすることが多かったクラスメイトの女子たちから、初詣に行こうと誘われていた。気が向かなかったが私は彼女たちに付き合った。衝撃的な状況に出くわしたのは、その帰り道でのことだった。  9ヶ月間ずっと缶詰状態にあると聞いていた彼の姿を目撃したのだ。何気なく見あげたレンガ色のマンション。最上階のルーフバルコニーにその姿があった。  まさかこのタイミングで彼が戻って来るとは想像したこともなかったし、ゆるくうねった美しい黒髪がなくなっていたこともあったので、ルーフバルコニーで風にあたっている男性の姿を見たとき、私は一瞬、自分の目を疑ってしまった。けれども、自分の箱に戻ってすぐに、レンガ色のマンションから、見慣れた黒いジャージを着て走り出す姿を見たとき、やはり、その人は彼以外の何者でもないと確信した。  もしかしてオートレーサーになることを断念したのかと、一瞬期待したが、それは大きな勘違いだとすぐに思い直した。高校生だったときの彼が毎日筋トレをし、ランニングに励んでいたのは、オートレーサーになるためだったのだから、いまだにランニングを続けているということは、夢を諦めたわけではないということを裏付ける何よりの証拠に他ならない。残念だが、あと5ヶ月間、彼の帰りを辛抱強く待つしかない。  私はできるだけ自分の箱にこもっていた。丸刈りになった彼の生の姿を目に焼き付けたいのもあったし、彼がいつ自分の箱から出て行ってしまうのか、見逃してはなるまいと思っていたのもあった。  1日でも長く滞在していて欲しいと願っていた私は、1週間、いや、少なくとも三箇日(さんがにち)ぐらいはその姿を眺めることができると想像していた。  ところがだ。予想に反して1月2日の午前中、彼は大きなバッグを抱えてレンガ色のマンションからあさっりと出ていってしまった。結局、彼の箱に灯りがついたのは元旦の1晩だけだった。  私は彼が戻ってきたとき咄嗟に、彼が箱から出ていくときには、こっそりと最寄りの駅までついていって、その背中を見送ろうと思っていた。だから、いつでも箱の中から出られるように、身なりを整えていた。  けれども、颯爽と歩道を進んで行く彼の後ろ姿を見たとき、私の体はかたまっていた。本当はすぐにでも自分の箱を飛び出して、彼を追いかけなければいけないのに、私の足はいっこうに動かなかった。  ……私は薄々気づいていたのかもしれなかった。彼の背中を追いかけてしまったら、途中で歯止めがきかなくなるということに。私はきっと、彼が高校に通っていたときみたいに、同じ電車の隣の車両に乗り込み、ターミナル駅で彼を見失わないようにあとをつけ、駅のATMでずっとため込んできたお年玉を引き出し、鈴鹿まで行く電車に乗って、養成所まで行ってしまいそうな気がしていた。そしてきっと、養成所の入口で彼を呼び止めてしまう……。そんな自分の情けない姿が想像できてしまったのだ。
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