【第2章】1.消えた名前

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 彼に話しかけることは絶対にダメだ。私は、少し離れたところから、彼の生態観察を続ける。幸い、彼の様子は、インターネットを通して見ることができた。オートレースの公式サイトには、候補生の日々の練習場面やバイクを整備する様子が配信されていたからだ。彼の美しい髪がなくなっていることを知ったのも、その映像を通してだった。  たとえ画面越しであっても、彼の生態観察を続けることができるのはありがたかった。ときどきはインタビューを受けている姿も映し出されていたから、彼の声に触れることもできた。ほんの数ヶ月前、高校の友達と談笑していたときとは違って、彼の声は大きくはっきりとしていて、動作もきびきびとしていた。表情はいつでも引き締まっていて、口の両端にできるくぼみを見ることができないのが少し残念だった。教官に叱られている場面もあったが、肩を落とすわけでもなく、びくびくするでもなく、毅然とした態度で教官の顔から目を離さずに、叱責のあとに告げられた教官からの助言を真摯に受け止めている姿がいかにも彼らしかった。  エンジンを整備しているときの、半そでのTシャツからのぞく腕はレモンティーをくれたときに見たときよりも筋張っていて、以前にも増してたくましくなったように見えた。日に日にオートレーサーらしくなっていく彼の姿を見ることができるのは、相変わらず歪な箱の中で、娘を道具として扱おうとしている「母」との接点を断ち切ることができない私にとっては大きな救いとなっていた。  冬休みが終わり少しすると、進路希望調査が行われた。いまだに先が見えなかった。彼と同じ大学に行きたいという希望が、完全に実現しないと知ってしまったあの日から、私は自分の進路を考えることを放棄していた。でも、そうも言っていられない時期に差しかかっていた。2年に進級したら、文系と理系とでクラスがわかれる。それに加え、国公立を目指すのか、私大を目指すのか、推薦枠を狙っていくのか、あるいは専門学校を希望するのかによって、コースも変わってくるのだという。  どの道に進むべきか、何を基準に考えていいのかまるで見当がつかなかったのだが、学校の担任からは、なるべく早く選択するようにと迫られていた。「母」はとにかく「難関大」であれば、国公立だろうが私立だろうが構わないと考えているようだった。勉強に集中できていないつけがまわって、9月と12月に行われた定期テストや模擬試験での成績は振るわなかった。「母」はそんな私をまだ「優等生」だと信じていたかったようだが、家の中での彼女の態度は、大城高校に合格する前と同じように、毒々しいものに逆戻りしていて、あの不気味だった「家族ごっこ」もいつのまにかなくなっていた。私にとっては、うっとうしさが減ったぶん、気楽だったが、進路を決められないことに関しては気が重かった。とにかく、成績が下がってしまったこともあり、そもそも大学に進学したいのかどうかさえわからなくなっていた。  できることなら、私もオートレーサーになりたいと思うことさえあったが、競馬や競艇と違って、オートレースの場合、とにかく今現在においては、女性には受験資格が認められていないのだ。だから、どうもがいても、彼と同じ道を歩むことはかなわない。だから、私は私の道を切りひらいていくしかなかった。
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