2.懐かしく愛おしい4つの文字列

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2.懐かしく愛おしい4つの文字列

 私が大学に進学することを決意してから5ヶ月後、彼は怪我をすることもなく9ヶ月の養成期間を経て、晴れて養成所を卒業し、レンガ色のマンションに戻ってきた。私は高校2年に進級して2ヶ月が過ぎた頃のことだった。  彼が正式なオートレーサーとして走ることになるのは、夏頃だとネットの情報で知った。それまでのあいだ、練習のために、配属先となった大井のレース場へ足を運ぶ機会がずいぶんあるようだったが、一般人は立ち入れないという。彼が走路を疾走する様子を見るのは、まだまだ先のようだった。  彼の髪が少しずつのびてきていたのもまた、ネットの映像を通して知っていたが、生でそれを見るのは新鮮だった。5ヶ月ぶりに見る彼はもう、「候補生」ではなく正真正銘の「オートレーサー」という職業人になっていた。私はまだ、あと2年近く高校生をやっていくというのに、彼はもう稼ぐ方法を手に入れている。独立した大人である彼が、とても眩しく見えた。  もはや私はあのヒトを「母」だとは思っていないが、世間はあのヒトを私の「母」として扱う。学校の先生も保護者もクラスメイトも、そして塾の講師も近所の人も、あらゆる人があのヒトのことを私の「母」として接してくる。私はもうとっくにあのヒトを切り離しているというのに、いまだに「母」は私を切り離そうという気がないらしく、私大の文系コースを選択した私を、世間が崇める最高峰の私立大学の法学部に合格させることを夢見ているようだった。  2年に進級した頃は、相変わらず、周囲の人間からの称賛を得るためだけに娘の進学先を決めてしまう「母」のことを、完全に軽蔑しきっていたが、既に私には、なりたい職業が決まっていたから、学部はさておき、少しでもランクの高い大学に行きたいという点においては彼女と目的が合致していた。  彼と同じように、オートレースの表舞台に立つ資格がない女性である私は、裏で彼の仕事を支える職に就くことを決意していた。私はオートレースの関連団体への就職を望んでいたのだ。しかし、いろいろ調査した結果、職員の採用人数もそれほど多くはなく、なかなかハードルが高いようだった。  けれども、私は何としてでもそこの職員になって、彼と微妙な距離を保ちつつ、生態観察を継続していきたかったから、勉強を怠ることは絶対にしなかった。  もちろん、その件については「母」にも学校側にも話してはいない。将来どんな職業に就きたいか、定期的に進路希望調査票には書かされるが、私立大学への進学を希望しているというところでとどめている。具体的な就職先など、実際に大学に進学し、いよいよ就職活動が始まるという時点になってから伝えれば十分であって、まだまだ先の話だ。ましてや、進路相談という名のもとに、事務的な面談しか行わない高校の担任ごときに話すことでもないし、「母」などは目先の難関大合格のことしか考えていないのだから、就職先の話など全く出てきやしないのだ。  でも、私にとって、それはとても都合のよい状況だった。おそらく「母」は、私がオートレースの関連団体に就職を希望していると知ったら、大反対することが目に見えていたからだ。あのヒトの忌み嫌う轟音に関連する職業に就くことなど、彼女にとっては全くもってあり得ない話であろう。
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