2.懐かしく愛おしい4つの文字列

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 熟睡できないままに朝を迎えた。紺色のTシャーツにひざ丈までの黒いパンツ。いつも図書館に行くときに身に着けるような地味でラフな服装をあえて選んで、9時50分頃、私は家を出た。もちろん「母」には、図書館に行くと嘘をついた。罪悪感などまるでなかった。  レース場に着くと、初めておじいちゃんと来たときとは違って、かなり蒸し暑かった。気温のせいなのか、場内に入ると、オイルと焼けたアスファルトがまじりあった匂いが色濃く立ち込め、走路に近づくにつれ、その独特の匂いはいっそう強烈に鼻腔を刺激した。  観客はまだまばらだった。女性ひとりで来ている姿はほとんどなかった。多く目につくのは年配の男性で、顔見知りなのか、特に連れ立って来た様子でもないのに、すれ違うと互いに声をかけ合って、赤ペンを片手に、出走表やスポーツ新聞を見ながら、あれこれレース談義をしている。  高校生は車券は買えないが――無論、買うつもりもなかったが、1人であっても入場を拒否されることはない。冷房の効いた、ガラス張りの特別観覧席にも入らずに、ただ一般席で観戦するだけの客など、レースの主催者にとっては一銭の得にもならないのだから、迷惑かもしれない。  私はいずれそちら側で働こうとしている人間だ。選手も職員も現場従事員も含め、オートレースに関する職業に就いている人間のほとんどが、客が買った車券の代金から差し引いた、30パーセント分の手数料、すなわち『寺銭(テラセン)』の中から給料をもらうことになっている。それはよく理解できていたから、自分のような客はむしろ客のうちに入らないのはわかっているのだが、今はそんなことに構っている場合ではなかった。    私はゴールライン付近まで歩いて行くと、強い光が照りつける真夏の走路を取り囲むフェンスに寄りかかり、(ひたい)に浮き出てくる汗を拭いながら、出走表をじっくりと見つめる。    『蒼井純一』  確かに彼の名前がそこにある。高校の下駄箱から消えてしまった懐かしく愛おしい4つの文字列が、入場門を抜けたところで手にした1枚の紙の中にしっかりと印字されている。  彼が今日、1レースに出場するのは、ネットの情報を通して既に知っていたが、改めて現場で手にした紙の出走表に載っているその文字を見て、いよいよ蒼井くんが本式の選手として、走路で闘うのだという実感が込み上げてきた。
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