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20分程度の車券の発売時間が過ぎ、いよいよ本走が始まる。楕円形の走路の中心にある「待機室」と呼ばれる平べったい建物の中から、1から順にバイクが出てきた。4番の数字を背負った蒼井くんのバイクが、0ラインにじわじわと近づいていき、タイヤの先をぴったりと白いラインに合わせた。ヘルメットの黒っぽいシールドでその表情はわからないが、きりっと引き締まった凛々しい目が、そこにはあるのだろう。
私は彼の全身を改めて見つめる。レモンティーを差し出してくれた手が、今は、左右高さの異なるブレーキのついていないハンドルを握っている。気づけば、太腿にぴったりと張りつく私の右手は握り拳を作っていて、手のひらは汗でじっとりしていた。私はいちばん先頭でバイクにまたがっている蒼井くんの全身を、ほとんどまばたきもせずに見守っていた。
低く唸るエンジン音が今か今かとそのときを待ち構えているように、緊張をはらんだ音に聞こえてきた。周囲の観客のざわめきやファンファーレ、それに続いて「1レースの発走でございます」という女性のアナウンスの声がかすかに聞こえてきた。こんなにも音にあふれた世界の中で、固唾を飲む体内の音がやけに大きく感じらるのが不思議だった。
大時計をちらっと見る。針がそのときを指していた。
――いよいよ始まる。
爆音と同時に、視線の先にある青い勝負服がロケットのような勢いで飛び出したのは、そう思うのとほとんど同時だった。握りしめた拳にはさらに力がこもり、切ったばかりの爪の先が手のひらの中央にがっしりと喰い込んでいた。
直線で150キロ、コーナーでさえ90キロのスピードを出して競走するというオートレース。一歩間違えれば、落車による大事故が起こり得るということも、具体的な数字を聞かずとも、見ているだけで十分過ぎるくらいに伝わってくる。それほどのスピードで競走するには決して広いとは言えない走路の中を、色とりどりのバイクが轟音を響かせながら、反時計まわりに旋回していく。ハンドルが路面に接触しそうなほどに、車体を走路の内側に傾けながらコーナーをまわる様子を見て、左側のハンドルが高くなっている理由を今更ながらに知る。
4コーナーをまわり終えた青い勝負服が一瞬のうちに目の前を通り過ぎた。1周回目、先頭で白いラインを通過した蒼井くんの勢いは、まばたきをしていたら見過してしまいそうなくらいだった。私は、グレーの走路上に浮き出るように見える青い勝負服だけを、ただひたすら目で追いかけていく。遠ざかっていく背中を見送っていると、ほんの十数秒のうちに、2コーナー、3コーナー、4コーナーを順調にまわって、青い勝負服が爆音を引き連れてこちらに迫ってきて、瞬く間にフェンスのすぐ向こう側を走り抜けていく。
蒼井くんは2周回目も同様に先頭で通過したが、3周回目も半ばを過ぎた頃には、2番手を走る選手との距離が徐々に縮まっているように見えた。6周回で行われる勝負。残りはおよそ2周回半。彼はこのまま逃げ切ることができるのか、私は手だけではなく、全身に力がこもっていくのが自分でもわかった。
目には青い勝負服だけが映っていたはずなのに、4周回目にはさまざまな色が混在していた。5周回目の最後のコーナーで、一瞬、団子状になったバイクの群れが少しばらけたと思ったら、先頭の白い勝負服が目の前を通過する頃にはあっというまに、青い勝負服が群れから離されていった。
あともう1周回しか残されていなかった。どうもがいても、蒼井くんは8着という結果を覆すことはできそうになかった。
でもそれでいい。走路の内側に体を傾けて最終周回の1コーナーを旋回する蒼井くんの背中を見守りながら、私はただ祈っていた。どんなに先頭との距離が離れていてもいいから、とにかく無事、完走してください、と。
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