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成就
「青島さん。」
化粧室から出てきて、杉本響子に声を掛けられた青島は、うんざりした気持ちを表情に出さないよう咄嗟につくろう。
今日は、これからが肝心だと言うのに、こんな所で足止めを食わされてはかなわない。
こっち、と人目の届かない死角に引っ張られ、最悪な気分で辟易しながら、その手を振り払うわけにもいかない。
「あれから、全く誘ってくれないから寂しかった。怖気付いちゃった?」
そう言って首に腕を回してきたと思ったら、あろうことか強調させた胸を当てられてしまい、持て余すほどの自信を持つと、こういう思考になるのかと感心する。
磨き上げられた体はそれなりに魅力的なのかもしれないが、全くそそられないどころか、嫌悪感すら感じておかしくなった。
「あんな普通の子、簡単に落とせるからって…」
男を部屋に誘うような女が、どの口で言っているのだと呆れる。
あれが普通なら『普通』とは、なんて面倒で愛しい物なのか。
「そうですね。」
青島は、この状況で初めて口を開いた。
「僕も部屋を取っているんです。今日こそ、普通の子を自分のものにしたいと思って。」
「ああ、それから彼女とは数回、夜を明かしましたが、寝る時いつもトレーナー姿で色気が全くない。それなのに服の上から僅かに感じる、体の線とのギャップがたまらないんです。」
響子の表情はみるみると変わり、不愉快を絵に描いたような形相になってしまったので、蹴られはしないかと一瞬身構えた。
しかし、ふんっと言わんばかりに青島を睨みつけると、ヒールの音をけたたましく鳴らしながら去って行った。
安心した青島は、ため息をつくと香水の匂いが残っていることに気がついて、舌打ちをする。
鼻をつく匂いを気にしながら、青島が急ぎ足で宴会場の前に戻ると、ついさっきまでごった返していたフロアは落ち着いていたが、未来の姿が見当たらない。
「そうですね。」
と言った青島の声が、未来の頭の中で繰り返し響く。
私たちはまだ何も始まっていない。
良かった、まだ戻れる。
常に心の奥底にあった、青島が寄せる好意を信じきれない不安や疑問は、間違いではなかったと実感していた。
責める気持ちは無かった。
私なんかを、あの人が、女として本気で好きになるわけないのだ。
過去や立場や年齢は、自分の気持ちにブレーキを掛けるには十分な理由だったが、一番怖かったのは、自分の自信の無さだった。
美容室の前まで脇目も振らずに歩いてきて、看板の明かりを残しただけの真っ暗な店内を見た途端、未来の心は完全に折れてしまった。
店の前に置かれたベンチに、力なく座る。
好きになる前で良かった。
…違う。
好きだと伝える前で良かった。
そうだ。
もうとっくに落ちていたのだ。
ずっとずっと背中を追いかけてきたあの人が、振り向いて、手を取って、好きだと言ってくれたから。
青島は未来の携帯に電話を掛けてみたが、コール音がするだけだった。
腑に落ちない思いでどうしたものかと考えているうちに、携帯も預けた荷物の中にあるのではないかと思った。
そして、ふと思いが至り、駆け出していた。
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