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22、所長
「あんな辺鄙な所に家があるの?」
所長は突然の唯の告白に驚きを隠せないようだった。
「はい・・。友達の実家なんですが、そちらに引っ越そうと思って・・。」
「なんで?」
間髪入れずに所長が聞き返す。
「いや・・しばらくの間だと思うんですけど。実は・・一緒に暮らしている恋人と別れ話でもめてまして・・。出て行ってもらうために、一時的に私から出て行こうと・・。」
「だからなんで?」
所長は怒ったように唯に問いただす。
(やっぱり・・辞めるしかないのかな・・。)
唯はだんだん怖くなって、口ごもってしまった。
「なんであなたが出て行くの?あなたの家なんでしょう?出て行ってもらえばすむ話でしょう?」
唯は、下を向いて赤くなった。
「なかなか・・話が通じない人で・・。」
小さくそう話した。
所長は、ふーっと鼻で息をし、
「あまりプライベートな事に首を突っ込むつもりはないけれど、しばらく違う場所に引っ越してどうするの?家賃はそのまま払うならその男の家になってしまうでしょう?状況はどう変わるの?」
とさっきよりも冷静に話した。
「家賃は払いますが・・光熱費は払いません。きっと困って出て行くと思います。それでも出て行かなければ家を引き払うつもりです。」
唯は、うつむいたまま言った。
所長は、組んだ手の指をくるくると回し、何やら考えていた。そして、また話始めた。
「とにかく、引っ越すから仕事には通えないと、営業車を貸してもらえるなら営業として働き、車通勤する。そういう事?」
唯は、少しおびえながら
「はい・・。すみません・・。」
と言った。
「営業は厳しいわよ。事務員とは違うわ。そんなプライベートな理由で職種を変更してわかってるの?しかも車でもあの距離は2時間弱かかるんじゃない?覚悟はできてる?」
女手一つでここまで事務所を大きくした所長はやはりいう事も違うと唯は思った。
(甘かった。自分はなんて甘いんだろう。)
唯は唇をかみしめて、
「やります。頑張って営業でも結果を出します。」
と言った。
(自分が決めた道だ。頑張ったら頑張った分給料にも反映される。頑張るんだ。私。)
唯は顔を上げ、じっと所長を見た。所長は、唯の目をそらすことなく、
「その代わり、こっちに戻ってきてやっぱりもう車いらないので事務職に戻らせてくださいっていうのはナシよ。そんなに簡単じゃないの職種変更は。」
とまっすぐ見つめ言った。
「はい。わかっています。」
唯は所長にたじろぐ事なく見つめた。所長は、じっと動かず唯を見、しばらくしてから目をそらしフフッと笑った。そして、
「なんかねー。私はあなたには甘いのよねー。なんだか期待しちゃうの。あなたきっと芯の強い子だから。我慢強いのよね。いい意味でも悪い意味でも。わかったわ。明後日から辰巳君について営業教えてもらって。最初はしんどいと思うけどきっとあなたなら大丈夫。ま、ちょうど女性の営業もほしかったのよね。」
と顔をゆるめて言った。唯は、急に認められたので、なんて言っていいかわからず、目を泳がせていた。所長は、椅子から立ち上がって、そんな唯に近づいて肩をぽんっと叩いて言った。
「ただ、1つ言わせて。その引っ越し。ただの逃げじゃない?状況が変わるのを遠くから見て待つ。自分は何も頑張らない。何も手を下さない。1番卑怯なやり方。それではきっと何の解決法にもならないわ。どこかで絶対、闘わないといけない。1つの問題を長く延ばせば延ばすほど、いろんなラッキーが逃げていくってこと。忘れないで。」
所長は今まで以上に、じっと唯を見て目をそらさなかった。唯もその言葉の重みと所長の目力に圧倒され、体が倒れそうになるのをじっとこらえた。
(ただの逃げ・・)
そう思いながら唯は、ぎゅっと指を手のひらに握りしめた。
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