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しばらく、ボンヤリとうわの空で過ごしていたと思う。
「大丈夫?晶さん体調悪いなら早退したら?」
同僚がそう言ってくれるくらいには、私は結婚しているのに人を好きになったしまったこと自体にダメージを受けていた。
「絶対起きないと思ってたことが起きると、びっくりするものね、人って」
「何が起きたんです?どっちにしてもショック受けてそう。顔色悪いよ。医務室行ったらどうですか?」
年下の同僚の松永君は、すごく心配してくれて、私の机にキャンディーを二つ置いた。俳優の誰とか君に似てるって言われてるくらいなのに、どうして私なんかを心配してくれるんだろう。
「俺がその仕事もらいますから、晶さんはこれでも舐めてて」
同僚は私の机から書類を数枚取っていった。
「ありがとう。今度、コンビニで何か奢ってあげるね」
「いや。サシ飲みがいいです。焼き鳥がいいな」
「からあげクンだね。了解」
「ちぇ、つまんねえ」
笑いながら、五歳下の同僚は自分の席に戻った。もう当分、夜出歩くのはやめよう。トニーさんのことを思い出すから。
その後、トニーさんからも連絡は無かったし、私からも連絡を取ることは無くなっていた。
会わなくなって一年ほど経ち、仕事帰りに街中のアーケードを歩いていた時のこと。
「あれ?マリアさん、お久しぶりです!」
「あ、ケンちゃん!」
共通の知り合いのケンちゃんとたまたま偶然会った時に、少しだけ彼の近況を聞いた。
「相変わらずみたいですよ、夜遊びは。今はコモンタイムって店によく行ってるみたいです」
知らない店だ。でも知らなくていい。
「ほら、ヒラメ通りの道から入って、ホテルがあるじゃないですか、あの道に入って……地下にあるんですけど、知りません?」
「そうなんだ、店はわからないけど、ケンちゃんもトニーさんも元気で良かった」
180㎝を優に超える長身の若者に私は微笑んだ。DJの彼は暖かそうなニット帽をかぶっている。
「マリアさん、今度マキ姐さんたちとその店行くんですけどどうです?」
マキ姐さんは夜遊びが上手なはっちゃけた年上の女性だった。シングルマザーで子供はもう大学生だっけ。
でも、その店には行けない。トニーさんが誰かの腰を抱いて飲んでいる姿を一緒に冷やかす元気は、もう私には無かった。
「いつ?」
「十七日の夜です」
「あー!残念!その日は実家に帰るんだ」
「そうですか、じゃあまた都合が合えば!」
「うん、マキさんにもよろしく!」
手を振ってケンちゃんと別れた。いい子だな、ケンちゃん。疎遠になっても声をかけてくれるなんて。
いつだかもう忘れたけど、みんなで飲みに行った時、ケンちゃんが酔って、
「俺、トニーさんの本命はマリアさんだと思うんすよね」
って言ってたっけ。そして私そっちのけで他の人たちで議論になってた。もちろんトニーさんはいないからそういう話ができるんだけど、皆勝手なこと言ってたなあ。そんな訳がないのに。
トニーさんがバーに奥さんを連れて来た時の優しい表情を、私はまだ覚えている。あれは、大切な人にしか見せない表情だった。
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