思い出したその曲

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思い出したその曲

家族で旅行なんて久しぶり。足を延ばして県外の温泉街にやって来た。 「お母さん、ここに入ってみようよ」 中三になったばかりの娘に連れられて、観光地のオルゴール館に入った。 こういうとこ、あんまり好きじゃないんだけどな……。そう思いながらも、娘は珍しそうにオルゴールを見ていたのでつきあう。 「Kポの曲とかあるかなー?探してみようっと」 娘がお目当てのアイドルの曲があるかどうか探し始めた。ああなったらすべて見て回らないと気が済まないから、私はのんびりと周りの商品を眺めた。 クラシックの名曲やアニメ映画の主題歌。誰もが知っているヒット曲。 「俺、他の店見てくるわ」 「うん、ここにいるから」 夫は全く興味が無いらしく、さっさと別の店に向かって行った。私も別にこの店に興味がある訳ではないけれど、娘を放置していくわけにもいかない。 いつだってそういうのは女親の役割だ。 ……もう諦めたけれど、全くそれに気づかない夫にも愛想が尽きていた。そして夫も同じ気持ちだと思う。私たちは、一人娘を育て上げるためだけに一緒にいるのだから。 別に、言葉で確かめたわけじゃない。ただ、そういう認識が共通しているから夫婦になった、という方が正しいのかもしれない。娘を産んで十五年。私は夫と夫婦の営み、というものをしていない。 元々、身体の相性も良いわけでは無かったし、夫の独りよがりなセックスを受け入れる余裕は、ワンオペで子育てしている私には持ちようが無かった。 娘が二、三歳になった時に、あるアーティストが亡くなった。 夫も私も大ファンでは無かったけれど、何となく寂しくなって、私はストレスを癒すためにネットサーフィンをしてそのアーティストの情報を集めた。 「ねえ、晴くん、私もういっぱいいっぱい。ファンの集まりに行ってくるから!」 ずっと子供の為に何もかも、正社員の立場すら諦め、夫の地方転勤につきあって、別の職種のパートをしていた私には、気持ちの限界が来ていた。 正社員を辞めた時に相当喧嘩していたから、夫は私とまたやり合うのは得策ではないと思ったのだと思う。 反対もせず、いいよ、と言って、娘が眠ってから夜出かけることを許してくれた。 その集まりには、たくさんのファンの人たちが集っていた。 そこにいたのが、トニーさんだった。 会った瞬間思った。あ、年が同じくらいの人だ。それに、私この人イヤじゃない。そして年齢を訊いてみると、やっぱり同い年だった。 イヤじゃないかどうかは、私の中で男性を判断する時にとても大きくて、生理的に受け付けるか受け付けないか、で判断してしまう癖があった。 いい人だけど気持ちが悪いとか、ちょっと無理、とか。女性ならわかる人多いと思う。 彼はガチファンだったから、私などはにわかファン扱いだったけど、何故か色々とそのアーティストについて話をしてくれた。 私はそのサークルの中のその他一名のはずなのに、同い年という事で気心が知れたのか、彼はよく行くバーを紹介してくれた。もちろん、他の人たちも一緒に。皆、様々なハンドルネームで呼び合っていた。 だからトニーさんももちろん仮名だった。私はどうしてマリアなんてつけたのかも覚えていない。実の名前と全然違うのは確かで、名前なんて符丁だから何だってよかった。 私はそのバーがとても気に入って、一人でも通うようになった。といっても、ごくたまにだけれど。 たまたまトニーさんがいる時は一緒に座って話をした。 「私、この曲が好きなんだ」 シングルカットされた曲ではなく、そのアーティストの大好きなアルバム曲が流れた時に、私は素直に言った。 その時からだったと思う。彼は私を少し馬鹿にしたような態度を取らなくなった。 何で今頃トニーさんのことなんか思い出したんだろう。もうずいぶん昔の話なのに。懐かしい人を思い出した感覚のまま、私はオルゴールの音色に耳を澄ませた。 「あ……」 それは、そのアーティストの、トニーさんが好きだと言っていた曲だった。私は咄嗟に店員を探した。 「すみません、今流れてる曲のオルゴールってありますか?」 「ございますよ。こちらになります」 店の二階に連れていかれて、陳列されているオルゴールを示された。 プラスティックとかじゃなくて、木の箱の美しいオルゴール。その箱は深い青のグラデーションでつややかに塗られていた。 「お聞きになられますか?」 店員はオルゴールのねじを巻いて、そっと置くと蓋を開けた。 柔らかく繊細な音が、メロディーとなって流れてくる。 これ、トニーさんにあげたい……。 今どうしているのかもわからないその人に、理由もなくプレゼントしたいなんて馬鹿げてる。なのに私はそのオルゴールを手に取ると店員に言った。 「これ、いただきます」 トニーさんにあげることが無くても、自分で聴いたらいいじゃない。たまには自分に何かあげよう。 プレゼント包装も要らない、と断り、私はそのオルゴールを手にした。そこそこの値段したけれど、ずっと聴くならいいかもしれない。シンプルなそのオルゴールは、蓋を開けるとオルゴールの機械が見えて、いわゆる小物入れみたいなのは、横に申し訳程度についているだけだった。だから音がいいのかな。余計な装飾も無いし。 「お母さん、オルゴール買ったの?」 「うん、懐かしい曲があったから」 「私、これ欲しいな」 娘は好きなK-POPアイドルの曲のオルゴールを見つけていた。手回し式の小さなもの。 「唯花が大切に聴くならいいよ。買ってあげる」 「ありがとうお母さん!」 帰りの車の中でも、娘は嬉しそうにオルゴールを鳴らしていた。娘にはこの旋律がいつか振り返る思い出になるのね。
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