思い出したその曲

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夫は悪い人じゃない。むしろ優しい人だと思う。ただ、何と言うか気の使い方がお互いにずれていて、合わない。例えば、夕食を夫が好きだからとたっぷり作った時に限って残業で、仕事で疲れたから簡単なもので娘と済ませてしまおう、と思ったら今日の夕食は何?と言われる。一事が万事その調子だから、夫は自分でスーパーの見切り品を買ってくることも多くなった。 それでも、もうそれを頑張って取り繕ったり、合わせようという気持ちも失せていた。一つ一つは、結婚した女性なら誰でも体験したことがあるようなことだ。 自分の意見は尊重されず、キャリアも諦め、いいお母さんであることが全てのように生きること――。 長年結婚生活を続けて来て、心が折れる瞬間がいくつかあって、いつだったかは忘れたけれど、最後の一本の藁が落ちた時があった。 もう、この人の為に、必要以上に自分を犠牲にするのはやめよう。 そう思ってからは、おせちも義母任せになったし、掃除も適当になった。義母は料理上手で潔癖症な人だから、私が作ったものはそもそも食べないし、夫はおせちが嫌いだし。それに、埃じゃ死なない。 もっと、外に目を向けよう。そう思ったのはいつだったっけ。まだ子供が小学生に上がる前にすでに思っていた気がする。 トニーさんに会っていた時は、それでもまだもがいていた気がする。あの時は自分がとにかく壊れそうだったから。 音楽の話ができる、しがらみも利害関係もない友達が、誰も友達のいないこの地域でできたことが嬉しかったなあ。 あのバーにももう随分行ってない。行かなくなったのは、確かマスターがトニーさんと喧嘩したっていって憤慨してたのを聞いて、トニーさんからも話を聞いて、ちょうどサークルも空中分解して……こういうのに巻き込まれたくないな、と思って行かなくなった。 それに……あれ以上トニーさんと仲良くしていたら、間違ってしまう、と思ったから。 彼は、私を欲しがるような視線を送るくせに、一切触れることは無かった。なのに女性をとっかえひっかえしていて……私までその中の遊んで捨てられるコレクションの中に入りたくなかった。 今ならまだ、友達のままでいられる。そう思っていたのに、覆されたのは、確か、二人で初めて待ち合わせて、一緒にバーのイベントに行った時だった。 今までトニーさんとは、一度も約束して会ったことは無かった。たまたまバーにいて、挨拶をして、話す。それだけだった。彼が女の人を連れていた時は挨拶だけだったりもした。 けれど、その時はどちらからともなく、一緒に行こう、という話になっていた。 あの日着たワンピース、もう入らなくなっちゃったな……。すっかり太っちゃった。もう流行遅れなのに捨てられないのは、思い出まで捨てたくないからだと思う。 嬉しくて、お店を何件も回って選んだ。普段履かないヒールも何度も試着して。 なのにあの日、私は常連さんたちの不躾な視線に耐えられなかった。 その人たちはいつも女性だけで固まっていて、グループで来ていた。二人や一人で来ることなんてない。絶対三人以上で現れた。マスターがこの人たち常連だよ、と紹介してくれたけど、挨拶をしても無視された。 ああ、こういうタイプの人たちなんだ。小中学生くらいのマインドのまま、年を取った女の人たち。 私は一人で来ていたから、誰とでも話した。男性女性関係なく。それが気に食わなかったのか、何なのか知らないけど、敵愾心を持って視線を送られることが多かった。 そしてそれは、いつの間にかあの女性たちがちやほやしているはずのトニーさんにも向けられていた。ダンスが本人曰く”少しだけ”上手いトニーさんは、もちろんバーでもモテていた。別に彼はイケメンじゃないけど。 なのにどうして彼女たちのターゲットになったかというと、多分あのグループの中で、結局彼と付き合うことができた人がいなかったからだと思う。 トニーさんが連れていた女性は、別に美人ばかりじゃなかったけど、雰囲気のある人が多かった。 集団でつるんで噂話をして、自分たちが美人でも可愛くもないのに、男の人から選ばれると思っている時点でありえない。彼の奥さんを見たらわかるじゃない。擦れてなくて、ぽっちゃりして癒し系なのにいきいきした可愛らしい女性。彼女よりも自分がイケてると思ってたのかな、あの人たち。 魅力がないと選ばれないのは誰にだって同じなのに。 そう思いながら頬杖をついて見ていたけど、二人でイベントに行った時の視線の攻撃は本当にすごかった。 視線ってこうも人を傷つけるんだ、と知った。いじめられている子って、こんな気分なのね。我慢していたけど、気分が悪くなってしまって、私は気分が悪くなったので、先に帰るね、と言った。 「ああそう」 呆れたような口ぶりで、トニーさんは返事をした。せっかく待ち合わせて、来たのにごめんね。でも、もう無理。耐えられない。 「急に気分が悪くなって。ゴメンね、トニーさん楽しんで」 帰ろうとする私をトニーさんが引き留めた。 「送るから、この曲が終わるまで待って」 「いいよ、申し訳ないし」 「飲んでないから、送る。待ってろよ」 私は機嫌の悪いトニーさんを初めて見た。そうだよね。遊びに来てすぐに帰るっていうなんて失礼だよね。でも、理由を言うことはできなかった。あの人たちの視線が嫌だなんて、それを言えるほど私と彼の関係は近くない。 こういう時、夫ならすぐに、大丈夫?と言ってくれる。ほら、夫の方が私の気持ちを汲んでくれるじゃない。そう、だから、こんな風に着飾って既婚者同士がデートなんてしたらいけなかったんだ。 帰ることにして、正解だった。これで良かった。 彼は私の人じゃない。 なのに、トニーさんは、最寄りのターミナル駅では無くて、家の近くまで送ると言った。 「乗って。気分悪いんだろ?家の近くまで送るよ」 「いや、いいから!遠いし!」 彼の住んでいる地域と、私の住んでいる地域は、ターミナル駅を挟んで全く反対側で、それなりの距離だった。 これはきっと彼の自家用車だ。営業で使っている社用車には見えない。私を乗せても大丈夫なんだろうか。私、いつもの香水をつけてるのに。 彼の口調に気圧されて仕方なく乗り込むと、ほんのり彼の匂いがする。 「ほんとに、そこまでで、十分助かるから……」 「送るって言った」 怒っているくせに、彼の運転は丁寧で、私の言う事を聞かずに車をバイパスに走らせた。 「ごめんね、ありがとう」 「いや、別に」 ぶっきらぼうな返事をして、トニーさんは黙って運転を続ける。もう友達としても関係が失われてしまった気がした。 いつものカジュアルな服装でくれば良かった。 助手席で泣きそうになる。 バッグからハンカチを出した時に気付いた。 どうして泣くの? トニーさんが怒ってるから?冷たいと思ったから? 違う。 私、この人が好きなんだ。こんな態度取られても。 ――気付いてしまった。もう会っちゃいけない。 他愛無い音楽の話をしていると、いつもの会話に戻った気がした。とても楽しくて、時間を忘れたくなる。 このまま、友達としてサヨナラしよう。また会おうねと言って。 トニーさんは家の近くのコンビニまで送ってくれた。こんな近くで誰かに見つかったらどうしよう。私は焦りながら車を降りる準備をした。 「ありがとう」 「いいんだ。この辺りまで営業来るから。小さな白い軽が停まってたら俺だよ」 「白い軽なんてたくさんあるのにわかるかな?」 私は少しおどけて言った。そんな事言わないで。探してしまいそうになるから。 「……探してよ、マリア」 ゆっくりと彼は伏せた目を上げて私を見た。 トニーさんの言葉と視線の意味を汲み取ることを私は拒んだ。早く降りなくちゃ。これ以上いたら戻れなくなる。彼はきっと遊びなのに。 慌ててシートベルトを外す。 私には娘がいる。彼女をちゃんと育てるって決めた。その為の息抜きにたまに飲みに出てるだけなんだから! 自分に言い聞かせて、大きく息を吸ってから、極力抑えた仕事用の声で挨拶した。 「……トニーさん、本当に今日はありがとう」 「じゃあ、また……」 もう会わないね。さようなら。あなたのことはいい思い出にするね。 心の中で、そう呟いた。 彼の車は、しばらくして歩く私を追い越して、交差点に入っていった。車に手を振ることなどしなかったし、できるはずもなかった。
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