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ありがとう、さようなら
鳴らしていなかったオルゴールを取り出してネジを巻く。ゆっくりと解けて行って繊細な音に乗ってトニーさんの好きな曲が鳴り響いた。
夫以外の誰かに抱かれるなんて、あってはいけないと思っていた。夫が全く私に触れなくても。それは家庭を壊してしまうことだから。
けれど、真衣が言ったみたいに、何も変わらない。
”こんなもの”なんだ。
真衣が言っていたことが今ならわかる。
こんなものの為に私は、好きな人を諦めたんだ。
遊ばれても、一度きりでもいい。
私は、あの人に抱いてもらいたい。
それで後悔しても。
もうトニーさんが使っているかどうかわからないSNSに久しぶりにログインした。
”お元気ですか?”というタイトルを入れて書きはじめる。
”突然ごめんなさい。お元気ですか?このメッセージを一か月以上経って見たならお返事はいりません。ある偶然から、トニーさんが好きなアーティストの曲のオルゴールが手に入りました。とても良いものなので、私よりもファンのトニーさんが持っていた方がいい気がして、お渡ししたくて連絡しています。手渡しでも、郵送でもご都合の良い方をお知らせください。要らない場合は返信不要です。”
自分で一か月の期限を切った。そうしないとずっと待ってしまいそうだったから。
トニーさんにメッセージを送った後に、松永君に、夫が感づきそうだから、跡は付けないでって言おう、と思った。
「え?旦那さん気付きそうなの?」
「うん、私がそわそわしてるのかもね、気を付ける」
「こんなにエロくなったら気付くかもね。ほら、こんなにまだ濡れてる」
笑いながら言った松永君の指が、私の脚の付け根をさまよう。
「気をつけないとダメだよ、晶は俺のなんだから、エロい顔他の男に見せたら……お仕置き」
溢れた場所を触られたまま、頭の後ろに回された手で、鷲掴みにした髪をクッと引っ張られて顎が上がる。それだけで感じて声が出てしまう。
「っ……あ……」
「ほら、Mっ気まであるんだから、相当エロいよ、晶。もっと早く俺のにすればよかった」
鎖骨に軽く歯を立てられて、私は身体に走る甘い痺れに震えた。
メッセージを送って、三週間が経った。多分トニーさんもうあのサイトには行ってないんだろうな。
綺麗に拭いて箱に収め、ラッピングしたオルゴールは、紙袋の中で眠っている。
諦めきった気持ちで、私はSNSにログインした。
”一件のメッセージが届いています”
私は慌ててその赤い文字をクリックした。
”久しぶり!手渡ししてもらえると嬉しい。いつなら時間ある?そっちの都合教えて”
送られた日時は、先週私がログインしてメッセージをチェックした翌日に送られていた。一週間もすれ違っていたなんて。
ぶっきらぼうなあの感じ。懐かしくて嬉しくて涙が目に自然と溜まる。
また、トニーさんと会えるんだ。
”来週の平日の昼間、会えますか?”
返信を打つとリアルタイムで返事が来た。トニーさんが今この時間に、私とやり取りをしている。それだけで、胸の鼓動が激しい。
”じゃあ水曜の、十三時にあのバーの手前のカフェで”
”わかりました。宜しくお願いします”
来週の水曜日。待ち遠しい、なんて気持ちになったのはいつ以来だろう。私は翌日朝一番で有給休暇を申請した。
「この日は?何があるの?」
上司だからと言ってそんな事を訊いてはいけないはずだ。なのに松永君は自分と会う日以外に有休を取ると、詮索するようなことを訊いてくるようになった。
「小学校の時の、お母さんたちで集まる予定です。私立中学に行った子もいるし……近況報告しようって」
「そうですか。楽しんでリフレッシュされてくださいね」
松永君は有給休暇申請書に受理印を押した。言い方は明るいけど、顔は笑っていない。身体だけの関係なのに、どうしてこんなに縛るのだろう。あなたにだって、かわいい年下の奥さんがいるじゃない。
その日の午後、今年から転勤してきた、私より少し年上の部長と話していると、松永君から声を掛けられた。
「林田さん、ちょっと!」
「はい、今行きます!」
部長に頭を下げて、松永君の所に行った。
「林田さん、資料探し手伝ってもらっていいかな」
「はい……」
松永君が資料室に入る。
「きゃ……!」
腕を強く引っ張られて、よろけているうちに、彼はドアの鍵を閉めると、私に詰め寄って、壁に押し付けた。
「何話してんの?高橋部長が気に入ってんの?アイツ晶のこと狙ってんだけど気付いてる?」
「そんなはず……」
「いや、飲みの席でどんだけ晶のこと目で追ってたと思う?好きな女を見てる男なんてすぐに見つけるに決まってるだろ?全然気づいてなかったのかよ」
私は男性のそういう視線を識別できない。余程、二人きりで側で見られたりしない限り。
「晶は俺のだってわかってる?」
唇を重ねたまま彼はそう言う。擦れる唇がゾクゾクとした感覚を誘ったけれど、私は返事をしなかった。だって私は、心まで明け渡してはいない。
「晶、返事して」
イヤだ、それは言えない。私の気持ちは、まだトニーさんにあるって気付いてしまった。
私は返事の代わりに舌を絡めた。
「……わかってるなら、いいんだ」
「……誡人……」
私が松永君の名前を呟くと、満足そうに彼は私を抱きしめる。彼の機嫌を取るのに名前を呼ぶのが効果的だということを私は学習し始めていた。
「愛してるんだ、晶……」
その言葉が心の奥まで届くなら、どれだけ幸せだったろう。
それとも、私がトニーさんに振られたら、この言葉をありがたがるんだろうか。
カフェに着いた。この辺りに来るのも久しぶりだ。
見回してもトニーさんはいないようだったから、私は飲み物を買ってから、壁際のカフェ内が見渡せる席に座った。
ワイシャツ姿の男性がカフェに入って来た。
あ、トニーさんだ。十年前と違うのは、痩せていた体格が少ししっかりしたのと、顔の皺。ちょっと枯れた感じがする中年のおじさん。
私は彼の目にどう映っているだろう。十年前よりも私はかなり体重が増えている。ふふ、きっと普通の中年のおばさんに見えているはずだ。
「おっす、久しぶり」
「あ、トニーさん、お久しぶり」
お互いにじっと見つめ合った。きっとこれは、お互い年取ったなって思ってる!ちょっと笑ってしまった。
「何がおかしいんだよ、久しぶりに会ったのに。ハゲたって思ってんだろ」
彼は前髪を掻き毟るように触って笑ってみせた。
「そんなこと無いって!お呼びたてしてごめんなさい。来てくれてありがとう」
彼の目が私を見て少し揺れる。何を思ってるんだろう。
「あれ?マリア、眼鏡かけるようになったの?」
「訊かないでよ、もうそういう年齢なんだもん。トニーさんはまだ要らないの?」
「ほら、俺は元から眼鏡かけてるマンだったからさ」
そうかコンタクトにしてたんだよね。私はたまに見る眼鏡の方が好きだったけどな。
「そうだったね」
近況とか、あの人はどうしてるか知ってる?とかを一通り話した。結局あの可愛らしい奥さんとの間に子供はいないらしい。
話が途切れて、トニーさんが言った。
「あの人も、逝っちゃったな。寂しくなったろ」
それはきっと私が好きなアーティストのことだ。
「うん、二人とも早すぎるよね……。たくさん泣いたよ、トニーさんに慰めてもらいたかったかも」
視線が交差した時に、トニーさんの視線の質が、最後に車を降りる時私を見たのと同じだと感じたのは気のせいなのかな。期待してしまう。もう十年も経っているのに。
「……連絡くれりゃ良かったのに」
目を伏せたトニーさんの表情は、十年前のあの日、白い社用車を”探してよ”と言った時と同じだった。
「だって、そんなので連絡なんて、子供じゃないんだから……」
そう大人だから、お互いに家庭があるから。私は悲しみを一人で乗り越えた。でもそんな我慢に何の意味があったのかわからない。
「これなの、ここでは鳴らせないけど、開けて見てくれる?」
私はオルゴールのことを切り出した。メッセージに書いた本来の用事はこれだから。
トニーさんは包装を解き、箱からオルゴールを取り出した。
「こんな立派な物もらっていいのか?」
「……いいの。これ、聴いてあげて。トニーさんが聴いてくれた方がきっと喜ぶ」
私は微笑んでオルゴールをまた箱に仕舞った。
「なあ、マリア、こんなの無料じゃもらえない。音も聴かせてほしいし、お礼させてくれよ」
トニーさんが、私の手を握った。その感触は、私がずっと欲しかった手触りそのものだった。この人に、触れてもらいたい。身体中、全部。
それは松永君に感じるものと少し違っていた。
「車、持ってきてるから。行こう」
トニーさんは私の手を繋いで、空いた手でオルゴールの入っている紙袋を持った。
カフェの裏手にある平面駐車場。トニーさんの車は違う車種に変わっていたことに、私は少し安心した。同じ車では別の人を思い出してしまうから。
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