ありがとう、さようなら

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私達は何も言わずに車に乗り込むと、トニーさんの手が私の髪を耳に掛けた。 やっと、私はこの人の元に戻って来た。 そんな気持ちで目を閉じると、温かい唇が重なる。乾いた彼の唇が吐息で湿り気を帯びてきて、私はそっと唇を開けた。流れている音楽と同じゆったりとしたリズムで舌が触れ合う。全部食べて。私のこと。 こんな幸せなキスを私はしたことが無かった。 気持ちいいだけじゃなくて、幸せ。この人が私の特別な人なんだ。 私は多分生まれて初めて、心の底から誰かに請うことをした。 抱いて、お願い。 「トニーさん、抱いてくれる……?」 トニーさんは確かめるように私を見ると、さっきより強引にキスをした。 身体の力が抜けるのも怖くない。だって、私はこの人に今から全てを捧げる。 「ずっとそうしたいって、思ってた」 余裕のない掠れた声が、私の鼓膜に響いた。 私は今から心から好きになった人に抱かれる。 こんな瞬間が私の人生に訪れるなんて。 郊外までトニーさんが車を走らせる間、私たちはずっと手を繋いでいた。昔からつき合っていた恋人同士みたいに、楽しく音楽の話をして。 繋いだ手からドキドキが伝わる。 「待って、手汗拭くわ。ガキみたいだな俺」 赤信号で手を離した彼は、慌ててスラックスで手の汗を拭いた。何人もの人と付き合ってきた男の人には見えない。 「はい」 手を差し出したトニーさんの手に私の手を重ねた。 「マリア」 部屋に入った途端に、壁に押し付けられて性急にキスをされた。私逃げたりしないのに。強引にされても怖くないのは好きな人だから。 あ、もう、力が入らない。 シャワーなんて浴びさせてもらえなかった。 ただ、手のひらが、指先が触れているだけで身体が跳ねる。 裸になって抱き締めてもらっているだけで、深く安らいで、隙間なく身体が馴染む人がいるということを知った。 触れられる度に、信じられない強さで身体に快感が走るのに、その感覚はとても柔らかく私を包む。 また私は新しいことを知った。気持ち良くしてくれる松永君はきっと”上手”な人なんだ。でも、本当に肌が合うというのとは違う。 だって、トニーさんは特別なことを何もしていないのに私の身体は自分が知らない震え方をした。 「ね、ずっとしてないの……だから……」 一つだけ嘘を吐かせて。私、今誰かに何度も抱かれてるなんて思われたくない。 「嘘だろ、ずっとって、何週間前の話だよ」 ああでも男の人にはわかっちゃうのかな。つっけんどんな冷たい声が降って来た。 「こども、うんでから、ずっと……」 大きな嘘を私は吐いた。こんなこと言う必要はないのに。けれど私には重要な意味を持っていた。 どうして私は松永君とあんな関係になってしまったんだろう。でも、あれがなければ、抱いてって言えなかったかもしれない。でも……。 「嘘って言ってくれよ……」 「嘘じゃ、な……」 お願い、信じて。 私はあなたと出会ってから、あなた以外、誰も好きになってないの。 だから、松永君に抱かれる前の私のままだと思って、あなたには抱かれたい。 トニーさんは泣く私の唇を塞いだ。 私の嘘はどう解釈されたのだろう。 その答えは彼の身体が教えてくれた。 「じゃあ、ゆっくり、しような」 彼は優しく私の両手首を頭の横で押さえながら入って来た。ゆっくりと。 粘膜がじわりと押し広げられて、ぴったりと触れている感覚。ただ、それだけなのに、体中が甘く痺れて意識が飛びそうになる。 「あ……あ……トニーさ……」 意識を飛ばさないために、私は首を振り身体を震わせる。彼は動いてもいないのに。優しく掴まれている手首からも痺れが広がる。 どうしよう、して欲しかったようにしてもらってる。何も言ってないのに。 微笑んで私を見下ろしながら、髪を撫でると彼が覆いかぶさって来た。 「よかった、イヤじゃなくて」 手首を掴んだ腕を解き、私を抱きしめたままトニーさんが深く入って来る。私は彼の背中に手を回し、必死にしがみついた。 呼吸をすることすら忘れてしまいそう。もう何も考えられない。 同じ気持ちで身体を重ねるって、こんな風なんだ。 私は何度も彼の名前を呼んだ。それは、本名ではないけれど、きっと今はもう誰も彼をそう呼ぶ人はいない。私のことも。二人だけの呼び名をお互いに囁きあった。 身体が触れ合っている部分全てが、溶けてしまいそう。 体温が上がって、身体中の毛穴が一気に開いて汗が身体を覆う。涙も彼が入っているそこからも、何もかもが溢れる。 彼は私から溢れる体液を掬い、味わい、身体に擦り付けた。自分に染み込ませるように。 何度も何度も、私は達した。すべてを委ねると、身体の中も外も心も、こんなに気持ちがいいんだ。 今まで一番好きになった人に抱いてもらった。 こんなに優しく触れられ、幸せな気持ちで。 良かった私、生きている意味があった――。 いつの間にか眠ってしまった私は、トニーさんの腕の中で目覚めた。 ただ寄り添って寝ているだけなのに、昔から何度もそうしていたみたい。ずっとこのままでいたいのにな……。 でも私は帰らないといけない。今日は娘の塾の日だから。 急に現実に引き戻されて、身体がとても重く感じる。 「……何時……?」 「四時だよ」 「……帰らなきゃ」 もうこんな時間だなんて。結婚して子供もいる自分の今を恨んだ。 私はこの人が好き。いつまでも側にいたいのに、それは叶わない。 慌ててベッドから降りようとする私を、トニーさんの腕が引き留めた。 「……もう少しいよう」 切なげな顔で私を見る。 ありがとう、その言葉が聞けただけで私は幸せ。 「ダメ、子どもが帰って来るから……受験生なの。夕食食べさせないと。塾があるから」 「高校受験?」 「そう」 私は未練を振り切るように、事務的な声で答えた。 「……わかった」 そう言ったのに、トニーさんは私に長い長いキスをした。ダメ。また溶けてしまう。私は懸命に娘の顔を思い出した。 キスが終わった後の彼の目が揺れた表情を私は忘れない。 そんなに寂しそうな顔しないで……。私は精一杯の笑顔を作った。 お互いに服を身に着けた後、ホテルの部屋を出ようとする時に、トニーさんは私を抱きしめて言った。 「マリア、好きだ」 その言い方は、まるで高校生の男の子が告白するみたいな言い方だった。 応えたいけれど、ワイシャツにきちんとアイロンで引かれている袖山の線が、彼の奥さんを思い出させた。 とても可愛らしい奥さん。 きっと普通に出会っていたら、友達になれていたと思う、そんな女性。 あの人から私は、トニーさんを奪うの? それはやってはいけない気がした。身体を重ねたけれど、大好きだけど、今はまだ好きとは言ってはいけない気がする。彼女を知らなければ、言っていたのに。 「……トニーさん、ありがとう」 私はターミナル駅まで送ってもらった。 駅前のロータリーに車が停まる。お別れの時間。夢みたいだった。 「今日はありがとう」 笑顔で私は気持ちを伝えた。 「また、連絡するよ。あっちにメッセージ送るから。あ、あとこれ」 「ありがとう!開けていい?え?グリーンティー!わー、懐かしいなあ。覚えててくれたんだ」 そういえば、どこかトニーさんが懐かしい香りがするって思ったのは、これだったんだ。嬉しい。私の香りまで覚えていてくれたなんて。本当に嬉しい。 またこれをつけよう。あなたと同じ香りを。 私は車を降りる前に、彼の手を握って言った。 「トニーさん、たまにオルゴールを鳴らして、私の事、思い出してね」 大好き。 だからセフレとかにはなりたくない。 本当に好きだから、今日一度だけ抱き合ったって信じたい。 私は車を降り、ドアを閉めて、周りからも関係の遠い誰かに送ってもらったんだろう、という風に見えるくらい丁寧に頭を下げた。 家に帰り、バタバタと夕食を作って食事した娘を塾に送っていった。 「最近お母さん忙しいんだね」 「うん、そうなの。気をつけて行ってらっしゃい」 何も知らない娘は、そう言って、勉強頑張って来るね、と言って車を降りた。 もう、私からは連絡を取らない。あのSNSも見ない。今日の思い出を汚さないためにも。 だけど、あなたがあれに気付いて連絡をくれたなら、私は子供が成人したらあなたの元に行きたい。 もしあなたがその時に一人になっているなら。 身勝手な願いをあの箱に込めた。 オルゴールをラッピングする前に、スマホの電話番号とメッセージIDをメモ用紙に書いた。 オルゴールの蓋の裏の薄いアクリル板を外して、メモを挟むと、その上からトニーさんが好きなアーティストの描かれたハガキをカットしたものを置き、アクリル板をまた嵌めなおした。表からはハガキしか見えない。 あれに気付いてくれたとしても、トニーさんが今の奥さんと別れてくれる保証はないし、連絡をくれるかどうかわからない。でもそれでいい。あの可愛らしい奥さんを傷つける権利は私には無い。 私なりに勇気を出して彼に抱かれて、彼も好きだと言ってくれたのだから、それでいいことにしなくちゃ。 けれど……あの”好き”は、抱いている時に浮かれて言った言葉じゃなかった。 それを信じたいって思うのは、愚かなことだろうか。きっとそう。こんないい年になって。 でも、信じたい。 トニーさんが帰り支度を終えた私に、少年のように言った、 「マリア、好きだ」 という真っ直ぐな言葉を。 ねえトニーさん、何度もオルゴールを鳴らして、いつか、あのメモを見つけて。 毎日、朝と晩、トニーさんからもらった香水を吹きつけることが日課になった。 彼もこの香りで私を思い出してくれているといいなと思いながら。 私は今日も、娘を塾に送っていく。夫はきっと今日も残業だ。 塾が終わって帰った娘が紅茶を飲みながら私に突然尋ねてきた。 「お母さん、私にどんな人生を歩んでもらいたいと思ってる?」 こんな質問をするような年齢になったなんて。娘もどんどん大人になっていく。 私はしばらく考えてこう言った。 「志望校に受かったり、やりたい仕事に就くのも大事だけど、本当に好きな人と結ばれてほしいかな」 「何それ!お母さんマンガとかドラマとかの見過ぎじゃない?」 娘の方が現実的なことを言う。 「そうかもね。でも、唯花、きっとそういう人と出逢えただけで幸せなんだと思うよ?その人の人生は」 「そっか、確かにそうだね、私も推しに出会えたから受験勉強頑張れてるもんね!」 唯花はフォトスタンドに入っているアイドルの写真を眺めて嬉しそうに微笑む。 「よし、私、やる気出たから勉強してくる!」 娘は自室に駆け上がって行った。 そうか、私は幸せなんだ。あの人に、トニーさんに出逢ったんだもの。 もう二度と会えなかったとしても。 アールグレイを淹れたマグカップに、ポタポタと涙が落ちては消えた。 スマホが震え、メッセージの受信を知らせる。 私はのろのろとスマホを手に取り、メッセージアプリを開いた。 ”木曜日にいつものところで” 松永君からの連絡だった。 私は、考えた末に松永君に電話をした。 「もしもし、珍しいね、晶から電話するなんて」 「松永君、私……好きな人がいるの。だからもう、約束できない」 大好きな人に、このくらいは誠実でいたい。もう、松永君とは寝たくない。 「は?何言ってんだよ!晶は俺のもんだろ⁈」 「……そういうのは、奥さんと、別れてから言ってよ」 電話の向こうが静かになった。いくら好きだとか愛してるとか言っても、松永君は自分が先に離婚するとは言わなかった。やっぱりそういうことなのだ。人は簡単に現実をひっくり返すことなんてできない。 「ただいまー」 夫の声だ。 「うちの人が帰って来たから。それじゃ」 私がスマホをタップして電話を切ったと同時にリビングの扉が開く。 「お帰りなさい」 「今日は何か食べるもん、ある?」 「炒め物でいいならね」 「じゃあそれお願いします」 冷蔵庫を開けて、キャベツやピーマン、ニンジン……野菜を確認した。ある野菜全部炒めちゃおうかな。 野菜と肉をを炒めながら思った。 トニーさんとのあの日の思い出さえあれば、私も真衣みたいに強く生きられるかもしれない、そう生きたい、と。 その半年後に、知らない電話番号からの着信があった。
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