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【7】「カケノブ」④
「声、と仰いましたね。その声は物橋さんが撮影されたこの村の映像にも記録されているんですか?」
僕の問い掛けに、彼女は無言のまま頷いた。
「聞かせてもらっても?」
「……」
僕はまだどこかで、物橋さんの勘違いではないか、村の人たちの作り話ではないかと疑っていた。疑う姿勢を持ち続けたかったのだ。おいそれと心霊現象を認めてガタガタと震えることが、僕にこの話をしている物橋さんの求める姿勢ではないはずだと思ったのだ。だが物橋さんはパソコンチェアに浅く座ったまま体重を後ろに掛けると、缶ビール片手に僕を顔をじっと見つめた。若干、目付きがあやしかった。
「噓だと思ってます?」
「いや……噓というかそのー」
「信じて欲しいです」
「あ、いやー……あー」
「普通は、他人に信じてと言われたらそれだけでもう信じることは出来ないと思います。だけど私はそれを分かった上で言います。先生、私を信じて下さい」
「……」
僕は鼻から溜息を逃がし、しっかりと言葉を選んでからこう答えた。
「僕は、この世には、おかしなものはいると思っています」
「……」
「僕自身、そういったことを経験して今に至ります。だから物橋さんの話を頭ごなしに否定するつもりは、ありません。だけど」
「簡単に信じる気にもなれない?」
「……これは僕の性格なんでしょうね。物書きですから、自分の目で見たもの以外に対してはやはり懐疑的というか、そうですね、色んな可能性を考えてしまうんです」
「先生らしくて良いと思ますよ」
物橋さんはほんの少し冷やかさを感じる口調でそう言うと、片手を伸ばしてパソコンのマウスを操り始めた。カチカチと小さなクリック音が聞こえる中、僕は敢えてそのまま先を続けた。
「人の声が聞こえるということは、空気が振動しているということです。空気が震えるということはもちろん発生源がある。つまりそこには生きた何かがいるということなんじゃないでしょうか。仮に、その姿を誰も見ていない、例えば見ていても認識していない、そんな状況が起こりえたなら、幽霊じゃなくとも同じ現象として認識してしまうことだってあり……」
ヴィィィィィィィィッ!!
「ひ!」
僕たちのいる作業部屋内に、スピーカーのハウリングのような暴力的な音が響いた。物橋さんは冷静な顔でモニターを見据えたままマウスを操作している。音は急速に静かになり、室内には、
……なんで
……なんで……が
……ダメ
……やめろ
……いやだ
……ふううう、ふううう、ううう、
明らかに人の声と分かる話し声だけが残された。
男なのか女なのか分からない。
低く不明瞭な音である。
しかし、それは紛れもなく人の話し声だった。
「かなりボリュームを上げているので雑音がひどいですが、どうですか、先生。これでもまだ聞こえませんか」
「……こ、この声は?」
尋ねる僕を見つめたまま、物橋さんは右手の中でカチカチと音を鳴らす。
いいいいやああめろおおおおお
うううううおおあああ
あっああ、ああああっああああ
ううううああああ
やめ
やめ、はああああ
やめて
あああっつあ、あ、あ、やめ
「この声はなんだ!止めろ!」
僕が立ち上がって叫ぶと、物橋さんは我に返ったように体をビクリとさせてマウスから手を離した。缶ビールが床に落下し、黄色い液体が半円を描きながら零れた。部屋中に大音量でこだまする気持ちの悪い声を慌てて消し、物橋さんは茫然としたまま荒々しく肩を上下させた。
「……大声を出してごめん」
僕がそう謝って床に落ちた缶ビールを拾おうとすると、丁度同じタイミングで物橋さんが僕の手を上から掴んだ。ひんやりと冷たい手だった。どうやら本当に寒いらしい。だがきっと、この僕の手だって同じくらい冷たかったに違いない。僕は正直、悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい程怯え切っていたのだ。
「先生」
「……」
「私を信じて」
僕は缶ビールを掴んで体を起こすと、作業台の適当な空きスペースに置いた。
「信じます」
「……」
「僕は物橋さんを信じます」
彼女はぐっと涙を堪える目で僕を見上げると、立ち上がって部屋の隅に移動した。
もし今聞いた声が、本当にあの村で録音された人ではないものの声だとするならば、実際に現場に居合わせた物橋さんは想像を絶する恐怖を味わったに違いない。……だが、とも思う。僕の性格の悪さだろう。信じているといいながら、僕は自分を納得させるための更なる情報を求めていた。
「今の声は、どこで記録されたものですか?」
物橋さんは空のバケツに入った雑巾を持って戻って来ると、床に零れたビールを手早く拭きとった。
「……うまく事が進めば、めぼしい場所にカメラを設置して映像を持ち帰るつもりでした。家の中だけじゃなく、山とか、あるならば川とか、そういう自然に。祖母に会って元気な姿を確認して、映画撮影の話をして驚かれながらも快諾を受けて、ロケハンをして、翌日かその次の日くらいには帰る。そういう段取りだったんです。自分の中で」
「なるほど」
「小型カメラを三台持って行きました。スマホも含めて四台、四か所で同時に撮影が可能でした」
記録映像の中で、物橋さんの鞄を持とうとした真美さんが「重たい」と言って手を離したのには、そういう理由があったのだ。
「今先生に聞いてもらった声は、私が寝泊まりした角部屋で発生した音を……録音したものです」
「物橋さんが……泊まった部屋? い、今の声が、家の中から聞こえたって言うんですか?」
驚きのあまりほとんどそのまま聞き返した僕に、物橋さんは黙って頷いた。
やがて彼女は雑巾とバケツをパソコンデスクの下に仕舞いこみ、再び椅子に腰かけた。両手を太腿の間に挟み、疲れたように背中を丸めて項垂れている。思い出しているのかもしれない。彼女があの声を聞いた時の状況を。
「物橋さん、君は……」
僕が先程述べた持論も、現実だけを見ればあながち間違いではないはずなのだ。
声が聞こえる以上、その音を発する何かが存在していなくては辻褄が合わない。心霊現象だと言えば何だって許されるわけではない。僕もこれまでに恐ろしい現象に見舞われた経験があるが、何もない場所から声が聞こえることも、幽霊が話をする場面にも出くわしたことはない。可能性があるとすればそれは、近くに潜んでいる別の人間の声か、あるいは自分が発している声だけである。
「これが録音された時、君もこの部屋にいたんですか?」
僕がそう聞くと、物橋さんはスーっと顔を上げて僕を見つめ、ゆっくりと顔を左に倒した。
「……信じてないんだ?」
「いや、違うよ」
彼女の手がまた、作業台の上のマウスに向かって伸びた。
「やめろ!あの声はもういい!」
「うふふ」
物橋さんは腹が立つ程美しい横顔に微笑みを浮かべ、「先生見て」と言った。
パソコンのモニターに、彼女が撮影した映像が映し出された。この時はまだ静止画である。映っているのは長篠家のどこかの和室、その襖だった。夜の筈だが、室内は照明のせいでやたらと明るい。
「映っている部屋は、美咲さんが以前使っていた部屋です」
美咲さんというのは徹さんと真美さんの娘で、現在妊娠九ヶ月、物橋さんよりも二つ年上の従妹だという。彼女の旦那さんである博尚さんを含む総勢六名で鍋を囲んだ後、お酒を飲んで眠ってしまった他の面子をほっぽらかして、思い出話に花を咲かせたそうだ。
「この部屋の、今映ってる襖の向こうは廊下です。私が泊まった部屋は廊下を右に行って突き当り、すぐ、近くです」
物橋さんは長い指先を使って説明し、
「いいですか」
と断ってから映像を再生した。
「……」
僕は下唇を噛んで不安に怯えながら、揺れ動く室内の映像を睨みつけた。カメラが移動し、畳の上に広げられた古めかしいアルバムを映し出す。
「長篠家の昔の写真です」
「こんな場面まで撮影していたんですか。よくOKが出ましたね。やっぱり年の若い従妹ともなると、摩耶さんと同じく慣れたものなのでしょうね、カメラにも、撮られることにも」
「……」
「だけど」
ヴィィィィ……ッ!
再び鳴り響いたノイズを遮るように、物橋さんは即座に音量を下げた。意識して聞いてみれば、その音は少し離れた場所から聞こえている気がした。
うううううああ……
そしてあの声が聞こえ始め、物橋さんは映像を停止した。
「先生、この時点で私たちはまだ美咲さんの部屋にいます」
「うん、そのようですね」
「……もう一つ、偶然があります」
「偶然?」
「夕食の後、私は遅くまで美咲さんと話をしました。しじま斬りの話もその時、美咲さんから聞きました。……いいですか」
物橋さんが操作し、無音のまま映像が再スタートする。例の音と人の話し声が聞こえた直後だろう。動揺したような手振れの後、カメラは美咲さんの部屋から出て廊下を右に進む。そして物橋さんが寝泊りしたという角部屋に到着し、彼女は襖を開けた。
「……あれは?」
思わず僕は目を凝らしてモニターを見つめた。
暗闇の中で、小さくて赤い物が光っていた。
「ビデオカメラです」
と物橋さんは答えた。「テストのつもりで夕飯前に設置していたんですが、忘れてそのままずっと回し続けていたんです。先程お聞かせした音も声も、記録されています」
「……」
おや、とは思った。何故初めにそちらの映像を見せなかったのだろうか。だがおそらく、定点撮影していた記録映像なんかより、物橋さんが自分で撮影した映像の方がよっぽど臨場感に満ちいると思った。そして何より、証拠として強烈である。
「あの声が本当はどこから聞こえたのか、それは分かりません。直感で、私が泊まる部屋だと思い駆けつけましたが、美咲さんといた部屋じゃないこと以外は、正直確信が持てません。だけどあの声が聞こえた時、私は自分の部屋にはいなかった、それは間違いありません」
彼女の言う通りだった。例の声は、物橋さんが無意識のうちに、あるいは夢遊病者のように発したものではないということが証明されてしまった。
「聞いていいかな」
「どうぞ」
「あの声は、このカメラ映像の中でだけ聞こえるんですか? それとも実際に自分の耳で」
「先生」
「愚問、だね」
「もちろん聞こえますよ」
「……」
「なんならもう少し長めにお聞かせしましょうか」
「いや、いい」
物橋さんは身体ごとパソコンに向かい、僕は反対側に視線をやりつつ断った。
「……先生」
「はい」
「人間の魂って、凄いんですね」
「え?」
「だって、生きてる人間には不可能なことでも、彼らは平然とやってのける」
「それは……」
「魂っていうのかな。気持ちっていうのかな。思いとか、強い、なんだろう……」
「……」
「私が聞いた声も、この世を去った魂の叫びなんだって思うと、怖いと思う反面、凄いんだな……と」
「それはそうかもしれませんが、それにしたって」
「あ、ほら」
彼女が指さすモニター画面に、お腹の大きな女性が映っていた。彼女が、美咲さんだろう。……誰もいない、やっぱり誰もいない。二人のそんなやりとりが記録されていた。
「あの声が録音された時間、私が部屋にいなかったこと、そして部屋の外からでも声が聞こえたこと、この二つが証明出来ました」
ぐうの音も出ない、とはまさにこれだった。
僕は何も言えなくなって俯いた。
静寂を斬り裂いて発生する謎の声。
人の話し声。
悲鳴に近いような声まで含まれていた。
しじま斬り。
僕はこの現象をどう受け止めて良いか分からず、ただ俯くしなかった。
「もちろん、録音されたこの声を、徹さんや真美さんにも聞かせました」
と物橋さんは言う。「祖母には刺激が強いと思って聞かせていませんが、なんとなく、既に知っているような顔つきでした。徹さんは声を聞いた瞬間憤慨し、真美さんは珍しく言葉少なに首を振って、『やめて』と、そう言っただけでした。納得のいく説明は誰からも受けられていません。美咲さんからは村に伝わる伝承のようなものを聞きましたが、それでも……」
聞いた話では、突如聞こえて来るこれらの声は、かつてこの村で死んだ者たちの未練ではないかと言われているそうだ。特にこの村では子どもが幼くして死ぬ事案が多く発生し、世を儚んだ親たちが子の亡骸を抱えたまま自害するケースもあったと言われている。子どもの早逝にどういった理由が隠されていたのかは分からないが、いつしか、『この村では子どもを産まない方が良い』という歪曲した教えまで広まっていったそうである。物橋さんの話では、実際美咲さん夫婦もこの村での出産は嫌だとし、間もなく自分たちの家に戻るつもりなのだそうだ。
だがそれはあくまでも言い伝えであり、事実であるという根拠はどこにもない。
「先生」
「……はい」
「もし先生がこの村での出来事を元に小説を書いて下さるとしたら、私は私の役じゃない方がいいです。だって、とても怖かったから」
笑顔でそう言った物橋さんの目から涙がこぼれた。
「そりゃあ、そうだろうね」
「っはは、うん。もー、泣いちゃったじゃないですか」
「大丈夫。オフレコにしますよ」
「……お酒追加していいですか」
「また!?」
明るい笑い声を上げて物橋さんは立ち上がり、僕の側を通って冷蔵庫まで歩いた。
ふ、と先程嗅いだ匂いとは違う微香が僕の鼻を掠めた。香水の匂いではなく、もっと生々しい人肌の匂いだと思った。
「……」
深く考えるのは失礼だと思って頭を振り、何気なく携帯電話を確認した。LINEのマークに「5」という数字が出ていた。珍しいこともあるもんだ、と思いアプリを立ち上げようとした矢先、僕の目の前に冷えた缶ビールが差し出された。というより、それは頭上から降りて来たのだ。綺麗なネイルの施された物橋さんの指先がそこにあり、僕はあえて触れないように缶ビールを受け取った。
「もう僕は飲めませんよ」
駄目ですよ先生。まだまだ夜は終わりませんよ。
彼女にそう言われ、僕は。
……嬉しかった。
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