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【1】「カケノブ」①
普段はあまり怒ったりなどしない人間のつもりだが、なぜかこの時ばかりは腹に据えかねた。
四十分待った。
しかし五十分が経過するまで耐えることが出来ず、僕は楽屋から出た。
某大手制作会社の廊下である。やたらと長い横文字の社名で、何人かに名刺を貰ったが覚えられる気がしなかった。ここでは仮に『U&SFM社』としておく。
「出口はどっちだ?……というか、ここ何階だ?」
何故自分がここにいるのか分からない。理由ではなく、必要性を感じなかった。ここ数日の間、若いスタッフたちの言うがまま必死に動き回ったにも関わらず、何かを成し遂げたという達成感が全くなかった。身体は鉛のように重い。午前中のうちから早く帰りたい思っていた……それなのに。
僕がスタッフの話を聞き間違えただけなんだろうか?
「お呼びするまでこちらで待機していてください」
そう言われたはずだ。なのにどうして一時間近くも放って置かれるんだよ。やはり忘れられているとしか考えられない。もしそうなら、今日僕がここにいる必要性はその程度だったということなのだ。
「あいつまだいたのかよ」
なんて笑いものにされる前にさっさと帰ってしまうのがいい。もっと早くにそうすべきだった。
「エレベーター……どこだ」
先生?
突然呼び止められてぎくりとした。
振り返ると、廊下の真ん中に驚くほど美しい人が立っていた。胸に抱え持った花束よりも美しい顔だった。
「ああ、あなた確か……」
見覚えは、あった。ここ数日忙しく動き回るチームの中に彼女もいた。話をした記憶はないのだが、やたらと多くのスタッフに囲まれている様子を、視界の隅で何度か見ていた。最終的には彼女の腕の中にある、白と青を基調とした大きな花束を渡され、拍手まで受けていた。僕なんかよりもよっぽどこの現場に必要な人間なのだろうと、良く知りもしない彼女のことをぼーっと眺めていた。
「……名前、憶えてくださいました?」
おずおずという感じでそう微笑まれ、僕は二つの意味でどきりとした。彼女の微笑があまりにも美しく魅力的だったのと、名前を憶えていなかったせいだ。
「……え。本当に?」
言われて僕は、
「すみません」
と正直に謝った。「僕、人の名前覚えるの得意じゃないんです」
「あれだけたくさんの登場人物が出て来る小説を書かれてるのに?」
「あれはだって、僕の創作物ですから、そこはほら……ええ」
「本当に覚えてないです?」
「……ごめんなさい」
「モノハシです」
「……ああっ」
「嘘だー!」
「すみません」
「あはは」
彼女は明るく、しかし上品さを損なわない程度の穏やかさで笑った。「冗談です、すみません先生。揶揄ってみたくなっただけです。先生のような方が私みたいなペーペーの裏方を覚えて下さるなんて、思ってませんから」
「いや、何日も一緒に仕事して名前の一つも覚えないなんて、失礼にも程がありますよね。申し訳ない」
「そういう見方も出来ますね。でも先生もお忙しいから」
「その、先生っていうのやめましょうよ」
「だって先生じゃないですか。懸延先生。この度は、映画化&ドラマ化おめでとうございます。このプロジェクトに関われると決まった時、本当に光栄なことだと思いました。嬉しかったです」
「こちらこそ。僕はただ単に小説を書いただけで、他には何もしてませんから。この数日は皆さん本当に忙しくされてましたけど、僕なんかなんでここにいるんだろうってずっと思ってました」
「……もしかして今、帰ろうとされてました?」
「はい」
「いやいや、今から打ち上げですよ?」
「今から? もう夜の十時ですよ?」
「先生子供みたい」
「いやいや……ええ?」
「いやいやいやいや、主役が消えちゃまずいですよ」
「いやー、今日はもう無理ですって」
「確かにお疲れの御様子ですね。あー、じゃあ、分かりました。ちょっと、ここで待っててもらえますか?」
「え?」
「すぐ戻りますんで、待っててくださいね」
そう言うと彼女は小走りで廊下を戻り、角を左に折れて見えなくなってしまった。
また待たされるのか、僕は。
しかし正直な所、嫌な気持ちでもなかった。本当に彼女が戻ってくるのであれば、の話だが。
数年前に僕が書いた小説が、なぜか今年になって実写映画化された。大きな賞を獲った作品ではあったものの、当時僕は精神的におかしくなって失踪騒ぎを起こし、一時世間を賑わわせた。当事者である僕は表に顔を出さなかった為、世間の反応を直接見たわけではない。しかし、不本意ながら作品は売れ、文庫化もされてその後さらに売り上げを伸ばした。
とは言え、映画化されるなどとは夢にも思わなかった。しかも驚いたことに、インターネット専用のスピンオフドラマまで作られることになった。映画公開に合わせて同時配信されるらしく、そちらにも僕の名前がクレジットされる関係上、制作発表や各種メディアへの取材に駆り出されるはめになった。忙しいのは良いことだ。しかしあまりにも勝手が分からなさすぎて、今自分が何を求められているのか理解できぬまま忙殺される日々が続いた。スケジュール的には今日で最後のはずだから、打ち上げ、というのはそういう意味だろう。
「先生?」
顔を上げると、いつの間にかモノハシさんが戻って来ていた。花束がなくなって、先ほど着ていた服の上に黒のロングコートを羽織っていた。左肩に大きなリュックを背負っているところを見ると、どうやら彼女も帰る気になったようだ。良かった、今から若者たちとどんちゃん騒ぎ、なんてことにならなくて。
「カケノブ先生、ちょっとだけお付き合いくださませんか」
そう彼女は言った。
「……帰りながら、ですよね?」
僕が答えると、彼女は僕の目の前に立って、
「このフロアの一階下に、私が自由に使える部屋があるんです。そちらで少しお話できませんか。二人で」
と言った。
「え」
とても良い匂いがした。
「打ち上げを」
「……」
帰れないのか。そう思ったが、本音を言えばまんざらでもなかった。僕は妻子持ちだが、たまにはこういうことがあったっていいじゃないか。何も悪さをする気はないんだし、こんなに美しい人と話せる機会はもう二度とないかもしれない。
「小説のネタに使える話かもしれませんよ?」
「へえ……なんでしょうか」
「じゃあ、下に」
「分かりました」
今回お世話になった「U&SFM社」の現場マネージャーに、スマホで連絡を入れた。お世話になったモノハシさんと、反省会をして帰ります。突然いなくなるのはさすがにまずいだろう、そう思い直したのだ。名前を出すことで、悪さ出来ないようにする意味合いもあった。
そこは大きなパソコンとビデオカメラが煩雑に並べられた十畳ほどの部屋だった。会議室のような雰囲気だが、彼女はその部屋を作業部屋、と呼んだ。
「まあ、いわゆる編集室ですよ。ここで、自分の撮った映像と音声を使って動画を制作しているんです。もちろん自宅でも出来るんですけどね、機材がいいのと、家だとついつい飲んじゃうんで」
そう言いながら、彼女は備え付けの小さな冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。
「まずは乾杯から」
「ああ、ありがとう」
「改めまして、『ものしり』という名前で創作活動をしています、物橋ものはしリクと申します。よろしくお願いします、先生」
「ああ、これはご丁寧に。懸延です」
「先生。先生は確か、梯伸郎というお名前でいらっしゃる?」
「よくご存じですね。あまり本名を外に出してはいないんですけどね」
「ファンですから、先生の。それにほら、カケハシとモノハシ、変わった苗字が似ている者同士」
「あはは、でも嬉しいです。お若い方にそうやって言ってもらえるのは」
「若くはないですよ、二十六ですから」
「若いじゃないですか。僕なんか三十五ですよ」
「おじさんですね」
「おじさんです」
物橋さんの職業は映像クリエイターと言うそうだ。今回僕の書いた小説が原案となるインターネット配信専用ドラマの、彼女は演出面に関わってくれている。
『彼女の扱うジャンルは多岐にわたり、ミュージシャンのプロモーションビデオやCGアート、企業CMなどを手掛け、若手クリエイターの中では人気、実力ともに筆頭格的存在として業界の認知度は高い。現在……』
と、この作業部屋にあるパソコンで調べた結果には賞賛の言葉が並んでいた。
「こうやってネットにも来歴が乗ってる人だったんですね。すみません僕の方こそ、失礼しちゃって」
「いえいえ」
目の前でネット検索されたにも拘わらず、彼女は嫌な顔一つせず右手を左右に振ってみせた。というより、口で説明するより早いとして、自分のパソコンを触らせたのは物橋さん自身だった。この余裕さに年代の差を強く感じる。それに、若くしてかなりの経験を積んでいる。道理で仕事終わりに大きな花束なんぞもらうわけだ。僕なんかよりも数倍「求められる人材」だったのだ。
加えて、この美貌である。机を挟まずにパソコンチェアに座って向かい合っていると、空きっ腹に入れたアルコールの勢いも手伝いどんどんと頬が紅潮してくるのが分かった。
「裏方さん……なんですねー」
もっと表に顔を出せばいいのに、という僕の下心が声に出てしまっていた。
「あ、でも」
缶ビールを唇に付けながら、側にある大きなデスクトップをカタタと叩いて操作する。「……一応、顔出ししてやってるんです」
「あ、やっぱり」
音がないのでどういった趣旨の映像かまでは分からなかったが、今よりも少し髪の短いショートカットの彼女の横顔が、モニターに大写しにされる。
「お綺麗ですね」
「ありがとうございます。……それでですね、先生」
「あ、はい」
「今回。実は、私の方でも映画を撮ってみないかっていう話が持ち上がってるんですよ。先生の作品とは別件で」
「へえ、凄いじゃないですか」
「ありがたいお話なんですけどね。私の所属するこの『U&SFM』が後ろについて、企画から撮影までの製作を執り行うんです」
「企画から?」
「そうなんです」
「すごいですね」
「すごいんです。だけどプレッシャーで」
「そうですよね、僕は多分吐いちゃいますね」
「うふふ、ここではやめてくださいね、高い機材ばっかりなんで」
「ええ、廊下に出します」
「あははは」
物橋さんの話では、つい先日、企画書をまとめる為のロケーション活動の一環として、彼女の母方の親戚が住んでいるという山間の寒村を訪れたのだそうだ。映画撮影の現場としてその村を使わせてもらえないかという交渉と、会議にかける為の下見である。
山間の村、と聞いて僕は一瞬ぎくりとした。僕が数年前に失踪騒ぎを起こした原因が、同じく山間にある長閑な村にあったのだ。おりしも、今回映画化された文芸賞受賞作である『丸命』という小説を書くために訪れた村で、僕は見たのだ。あの夜……。
「先生?」
「え。あ、はい」
「聞いてます?」
「聞いてます」
「顔色が悪いですよ。本当に吐きます? 袋用意しましょうか」
「いえいえ、全然全然。続けてください」
「しんどい時は無理せず吐いちゃってくださいね?」
「あはは、まだ半分も飲んでませんよ。お優しい方ですね。大丈夫ですよ、本当に」
「じゃあ」
現在その村には、母方の祖母が息子夫婦ともに暮らしているのだという。物橋さんの母親は、その息子の妹にあたるそうだ。
「まあ何もない村なんですよ。寒村っていうくらいですから」
「一応、村なんですよね?」
「んー、山ん中なんですね。地名的には麓の集落と一緒くたになってるようなんですけど、周りにはほんと数軒しか家がなくて。ほとんど引っ越ししちゃったとか、もう誰も住んでいないとかで」
「不便な暮らしを続けていらしゃるんですね。それはやっぱり、先祖代々守ってきた土地だから、ということでしょうか」
「そうですそうです。でですね、母から聞いたんですけど、土地だけは広いし周りに人がいないから、映画の撮影場所として使ってみてはどうかって言うんです。今更村興しという話でもないんですけど、母的にはおばあちゃんの様子も見てきてほしいしっていう理由もあったんですよね」
「なるほど。念願叶えば一石二鳥だ」
「うん。話に聞いただけではどんな所かもよくわかってなかったんで、ピンときませんでしたけど」
「あ、初めてだったんですね、その村に行くのが」
「いえ、物心つく前にはよく行ってたそうです。だけどもう、全く覚えてなくて。今日は、その時撮影した映像を先生にも見ていただけないかと思って」
「……え?」
何故だか分からない。しかし急激に嫌な予感がした。物橋リクとアルコールのもたらす酔いがいっぺんに醒めるほどに。
「どうして?」
「ちょっと、お酒追加したいなぁ」
彼女はそう言って立ち上がり、僕のすぐ横を歩いて冷蔵庫の前にしゃがみ込んだ。黙って彼女の細い背中を見つめ、返事を待つ。
「……だから、小説のネタになるんじゃないかなーって」
「何故ですか?」
尋ねた僕の質問に、物橋さんの動きが止まった。「別に、小説のネタには困ってませんよ。どうして僕に、ネタを提供してくれるんですか?」
「いやー……」
彼女は立ち上がって僕の前に戻ってくると、ぎしぎしと音を立てて椅子に座りなおした。驚くほど細い彼女の身体の重みを想起させる、なんとも生々しい音だった。手には二本の缶ビールを持っている。
「ファンだから……じゃあ、ダメですか?」
「……」
「今回の映画企画、出来れば、先生には脚本を手伝っていただけたらー……なんて」
「僕が」
「勝手な願望です」
「『ものしり』さんを主役に、ですね?」
「あはは、顔出し程度なら良いですけど、主役なんて恐れ多い」
「いいですよ」
「ほ」
彼女の大きな目が僕の顔を射抜いた。「……本当に?」
「ええ。仕事をいただけるんですよね。嬉しいです」
「本当に本当?」
「ええ」
「……嬉しい」
上気した彼女の頬がとても艶めかしく、僕は思わず妻と子の顔を思い出して下を向いた。
「……じゃあ、見せてもらいましょうか」
「え?」
「あなたが訪れて撮影したという、その村の映像を」
……それが、この悪夢のはじまりだったのだ。
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