【10】「ものしり」⑤

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【10】「ものしり」⑤

「家出る時また言われたわ。あの娘はまだおるんか、早いとこ帰らせ、て」 「有三さんに?」 「うん」 「それって私、嫌われてんのかな」 「いやあー……」  2015年12月9日。  ようやく霧が薄らぎ始めた朝の八時半という時刻に摩耶と待ち合わせた。八時には私の準備は済んでいたが、摩耶から「ごめん、あと十五分待って」という絵文字付きのラインが送られて来た。結局「今行く」と返事があったのが八時半。  私は長篠家を出て山を登る坂道を歩いた。意を決して、というと大袈裟かもしれないが、私はなるべく自分の足音が大きく鳴るように、スニーカーを強く踏んで歩いた。もちろん、穴を掘っている男に自分の存在をアピールするためだ。覗き見ではない、私は今からここを通りますよ、そう知らせるためである。  あの時一瞬だけ、振り返った男の顔を見た気がする。確かではない。しかし、鴫田さんではない、そう思った。私は真美さんに真相を問い質すのがなんとなく嫌で、摩耶からの連絡を受けるとそのまま何も言わずに家を出た。  山肌に沿って居並ぶ長篠家、夏目家、鴫田家を結ぶ一直線の舗装された坂道。私は庭を突っ切り、その坂道に出るまで振り返らなかった。男と目がうのが怖かったからだ。昨日お昼頃にこの村に到着してから今この瞬間まで、私はその男の存在を誰からも紹介されていない。鴫田さんである可能性もなくはない。真美さんはそう言ったのだ。実際鴫田さんの家の玄関には大きなシャベルが立て掛けてあった。だが、私の直感が違うと告げていた。じゃあ誰なのか、それを考えるのが怖かった。  坂道に立って振り返ると、どこにも男の姿はなかった。  長篠家から夏目家までは歩いて十五分もかからない。脇道を右手に折れてしばらく林道を行けば鶏舎の屋根が見えて来る。摩耶とは、その林道の途中で再会した。 「私、嫌われるような態度とってたんやろか」  早くこの村から出て行け、そう有三さんに言われるようなことを、私は初対面の時にしでかしていたのだろうか。 「いや、爺ちゃんの性格考えたら、多分嫌な奴には自分でそう言うわ。私に気を使って直接言わんのやったら、多分ずっと黙っとく人や思うねん。リクはほら、私よりも早くこの村を出る人間やし、それが分かっててなんでなんやろなあって、私も不思議……」 「穴ァ、掘りよるんじゃ」  きゃあ、と二人して叫んだ。  勢いよく振り返るもそこには誰もいない。  ビデオカメラと三脚を詰め込んだ重たいリュックを背負っていた私は、咄嗟のことにも身を竦めるしか出来なかった。摩耶は叫んで一二歩先を行き、振り返ったのはほぼ同時だった。  並んで歩いていた私たちのすぐ後ろ、ほとんど耳元でその声は聞こえたのである。穴を掘っている、その声はそう言った。どういう意味かは知らない。しかし私の脳裏に、長篠家の敷地で地面を掘り返していた男の姿が浮かんだことは言うまでもない。 「……爺ちゃん」  ぽつり、と摩耶が呟いた。林道を戻り舗装された坂道へと向かっていた私はたちは、突然の声に驚き振り返った視線の先で、一人立ち尽くしている夏目有三さんの姿を目の当たりにした。距離にして五十メートル以上離れている上、まだ霧が残っているため視界が悪い。しかし特徴的なえんじ色の帽子が見え、何より夏目家には今有三さんしか住んでいないのだ。  何故このタイミングで有三さんが現れるのだ。私は怖くなって摩耶を見た。 「爺ちゃん、何で」 「誰にも見つからん場所に埋めたるでなァ」  再び背後から聞こえた声に私と摩耶の背筋が凍りついた。もう、怖くて振り返ることなど出来なかった。声だけじゃない。私たちに語りかけるその声の持ち主の、存在感がすぐ側にあった。  誰かが、後ろに立っている。  その時だった。 「早よ帰れぇッ!」  仁王立ちしたまま有三さんが叫んだ。遠く離れた場所からでもその声は届いた。とても老人の出す声とは思えない。だが、その声を聞いた瞬間私たちの背後から悍ましい気配が消えたのだ。 「……摩耶。……行こ」 「……うん。……せやな」  私たちはゆっくりと踵を返し、舗装された坂道へと歩き始め、やがて同時に走り出した。坂道へと出た私たちは、そのまま鴫田さんの家へと全力で走った。  映像クリエイターとして日々パソコンに向かい作業する私と、ダンスに青春を捧げた摩耶では体力に雲泥の差があった。地の運動神経も相当違うのだろう。私が息を切らせて坂道を登り切る頃には、摩耶は鴫田さんの丸太小屋に辿り着いて玄関のドアを激しく叩いていた。 「しぎさん!開けて!」  だが、私はそんな摩耶の側に近づけなかった。  長篠家で見た、頭に白いタオルを巻いた男。もしそれが鴫田さんなら、今ここで鉢合わせするのもそれはそれで怖い。何故怖いのかは分からない。だが、そこを冷静に考える心の余裕がなかった。 「しぎさん!」  私が長篠家で穴掘り男を見たのはつい三十分程前だ。摩耶の支度が完了するまで家の玄関で待機していた私よりも先に、この丸太小屋に戻ってくることは十分可能である。見ると、やはり玄関わきにはシャベルが立て掛けてあり、先端には土がこびりついていた。 「摩耶」 「しぎ……え、何?」  ドアを叩くのをやめ、摩耶が振り返った。 「鴫田さんて、どんな人?」 「……え?」  摩耶にしてみれば理解不能な質問だっただろう。悪気のない皺を眉間に刻み、摩耶は私を見つめ返した。……どういう意味? 「さっき、摩耶に会う前に、長篠の敷地内で鴫田さん見たん」 「あ、え?」  私の言葉に摩耶は無意識に丸太小屋を振り返り、 「いつ」  と私に向き直って聞いた。 「摩耶を待ってる間。八時くらい」 「どこでえ」 「家の左っかわに、庭あるやん。坂道側の、広い」 「縁側に面してる方やろ? 美咲さんの家の方じゃなくて」 「うん。その庭で……穴掘ってはったわ」 「う、えええ?」  摩耶は混乱しながらも、私の話を理解しようと視線を外して空を仰ぎ見た。やがて彼女の視線が私を見据えて止まり、そして瞳が震えた。 「……穴」  摩耶が呟いた瞬間、彼女の背後で小屋のドアが開いた。 「摩耶、ちゃん?」 「しぎさん!」  寝ぼけ眼で顔を覗かせた鴫田さんは、白いタオルを巻いていないボサボサの髪の毛を恥ずかしそうに掻きながら、「なんでこんな時間……」と言った。低血圧なのか、もの凄く小さな声だった。 「しぎさん、正直に言うてな。今朝、長篠さんとこ行ったん?」 「……」  鴫田さんの目が、少し離れて立っている私を見た。 「しぎさん?」 「……今日は行ってないよ」  ゾッっとした。  噓であってほしかった。  じゃあ私が見たのは誰なのか。  サクザクと地面を掘り返すあの音は、一体何だったのだ。  私の体は強張り、全力疾走を終えて発汗しそうな程熱を帯びていた全身が、鴫田さんのたった一言で一気に冷えた。 「ごめんね、摩耶ちゃん。昨日は徹夜して、さっき、眠ったところなんだ」  鴫田さんは抑揚のない声でそう言い、静かにドアを閉めた。  摩耶が私を振り返り、言った。 「どういう事なん」  私と摩耶で、認識の違いが生じていた。  もとより口数の少ない鴫田さんからは、彼が長篠千歳に頼まれ敷地を掘っていること自体、聞かされていなかったらしいのだ。少なくとも私は真美さんからそういう事実があることだけは聞いていた。頻度や場所、時間帯など詳細は何も知らないが、長篠家で出る生ごみを土に埋め、肥料に変えていることは間違いなさそうだった。もしそれが噓ならば、たくさんの人間を巻き込んだ噓ということになる。真美さんが私にそんな無駄な噓をつく理由はない。 「腐葉土を作ってるとも言うてたよ」  と私は答えた。「私も聞いたことしかないけど、とにかく大きい穴を掘って……」 「分かるよ、腐葉土は。うちも鶏の餌とか畑用に分けてもらってる。それを、しぎさんがやってるん?」 「穴掘りは大変やからって」 「……時間もかかるしな」 「そうなん」 「落ち葉やなんかを発酵させてつくるんよ。穴掘ってそこに葉っぱ落とした方が量作れるし、大体二三ヶ月かかるから、場所が許すんならいくつか同時にやるやろな。長篠さんとこ、畑広いし、使う量も多い」 「そうなんや」 「……」  摩耶としても納得のいく話ではあるらしかった。鴫田さんはこの村にとっては新参者に等しい。御用聞きの真似ごとをする必要などないのだろうが、古株の機嫌を取って重宝がられること自体は田舎済暮らしにとっては重要なのかもしれない。おそらく摩耶の表情が明るく晴れないのは、自分が何も知らされていなかったことに起因していると思われた。  摩耶はもう一度丸太小屋を振り返り、いこ、と私に合図した。  カメラは三台しかない。なるべく広い空間を画角に収めておきたい所だが、正直、映画製作に気持ちが向かうような心境ではなかった。手伝ってもらうと言った手前「やっぱりやめよう」とも言い出せず、適当な場所に設置して時間が過ぎるのを待つことにした。  一台目は舗装された坂道の、夏目家へと向かう脇道の角。このあたりで二度声を聞いたことを考えると、あまり撮影向きとは思えなかった。しかしこの坂道は村にとって唯一の舗装された通りである。急勾配の坂になっており、上から見下ろす景色はなかなかに絶景でもあった。  二台目は長篠家所有の段々畑が良いと考えていたが、よく見れば奥に行くにしたがって段差が登っている。もしカメラを設置するなら当然上から見下ろす方がきれいに撮れるわけで、そうなると回収に時間がかかる。私は悩んだが、やはりやめておいた。 「どこがええやろか」  私が問うと、 「でも、長篠さんとこでカメラ回すのは……ちょっとなあ」  と摩耶が苦笑した。  先ほど恐ろしい声を聞いたばかりである。何もこんな場所に置かなくても、と思う彼女の気持ちには強く共感出来た。 「昨日ここ来る時にな、麓の村でタクシー降ろされてん」 「ああ、入って来おへんねんな、運ちゃんら」 「摩耶ん時もそうやったん」 「そやで。めっちゃ歩くもんいつも」 「な。そこの道もええかもな、今思うと。なんかこう、ぱーっと視界が開ける感じあるやん」 「ああ、確かにな。そうしよか。ほな、あと一台やなあ。どうする?」 「あと一台は、摩耶撮るわ」  歩きながら私は答えた。 「え?」 「資料映像やん。な、踊ってよ」 「まじ?」 「まじまじ」 「今?」 「今。なんかこう、動きがあってええと思うわ」 「歩きながらが?」 「そう」 「そう来たかー」 「踊れんのかー? 摩耶さんよー、朝早くからよー」 「朝は別に平気やけど。うわー、着替えたい。なんでデニム履いてるん私」 「踊っちゃえよー」 「誰やねん」  我ながら名案だと思った。夏目摩耶という人材を自分の制作する映画に登場させてみたい。その気持ちは今も変わらない。  実を言えば私は、祖母の顔を見る為この村を訪れる直前、映画企画に活用できる資料映像を撮って来るという話を、職場の仲間に伝えてあった。今この段階で早急に何かを決めねばならないというわけでもないのだが、東京へ戻ってすぐに取り掛かる次の仕事が、個人的にとても楽しみにしていた案件だった。摩耶にも話して聞かせた、ネットドラマの件である。自分で上司に掛け合い手にした仕事なだけに、最後まで集中してやり遂げたいという思いが強い。その為、せっかく地方の田舎へ行くのであれば、しばらくはロケハンに時間を割く暇はないことも考慮して、この村で資料映像を撮って帰るのはある種必然とも言えるのだ。  ただし、資料映像にも種類がある。私が本来求めていたのはロケ地だが、摩耶との出会いは大きかった。こんなことは本人には言えないが、彼女がプチ整形をカミングアウトしたことも私の中では重要な意味を持った。もともと素材として美しい人ではある。そこへ来て、自分の夢を叶えるために整形をも厭わない決断力と現代的な価値観、そしてあっけらかんとした性格があってこそ、疲弊する都市生活と田舎幻想の間で揺れる心情にリアリティが生まれる気がするのだ。  生きること、悩むことに積極的になれない人間など、私はあえて描く意味などないと思っている。早く東京に戻って、皆に夏目摩耶を見せたいと思った。 「私さあ」  両手を真上へ伸ばし、上半身を左右に捻るストレッチをしながら颯爽と歩く摩耶にカメラを向け、私は言った。 「うん?」 「東京戻ったら、 ネットドラマのメディア取材受けるねん」 「ああ、言うてたやつやな」 「うん。映画とドラマが一度に動いてる企画やし、そこそこ番宣とか紙の取材も入ってて」 「リクが出るん?」 「いやいや私はほとんど表には出んで。作家先生とメインキャストの人らが受けるんやけどな。でもドラマの方は映像主体で進んだ企画やし、名前くらいは出してもらえるわけ」 「へえー。リク出たらええのに。そこらへんのアイドルより全然可愛いやん」 「そんなことないよ」 「あるよ、私がファンやねんで?」 「この私がやで、みたいな?」 「そうそう」 「あはは。そいでな、打ち合わせもようけするからさ。私そん時摩耶の名前出そう思てんねん」 「何でやねん!」 「なあ、大阪でもいいねんけど。一回東京で会わん?」 「それはもう言うてくれたらなんぼでも行くよ」 「良かったー。ほら、はよ踊って踊って」 「あんたが喋るからやん!」 「あはは」  もし摩耶と東京で再会することが出来たら、何本か映像作品を作りたい。たとえ私が話をいただいた今回の映画制作でなくとも、何かしら世の中に出せる作品として摩耶を全面に押し出してみたい。評価されるのが私の映像ではなく摩耶自身だったとしても、それはそれで構わない。摩耶は絶対、世界でも通用する魅力を持っている。
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