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【11】「カケノブ」⑥
小説家としてよりもまず、一人の人間として脳髄が揺さぶられるような話を聞いている、そういった実感が強かった。
物橋リクという女性が、ストーリーテラーとして優れているというわけではない。しかし彼女の撮影した村の風景や、夏目摩耶という女性の飾らない口調と時折見せる魅力的な笑顔、まるで親友と話しているかのような素の物橋さんの話を聞いていると、まるで自分がその場にいるかのような臨場感を味わうのだ。
そうなって来ると、より多くの想像力を働かせながら聞いている分、突然聞こえる「声」と夏目有三さんの不可解な行動、さらには実態の掴めない「穴掘り男」の謎が、立体感を伴った恐怖として僕に襲い掛かるのだ。もともとお酒の弱い僕が、今夜初めてまともに言葉を交わしたといっても過言ではない新進気鋭のクリエイターと二人っきりで話していても尚、酔いや現実逃避といった心地よい浮遊感に浸ることが出来ない。
物橋さんは先程からずっと寒がっている様子だが、僕はだんだんと体が熱くなり始めていた。嫌な汗が背中を流れ伝っている。だがこれは空調のせいではない。心臓がバクバクと暴走しっぱなしなのだ。
「この村には何かがあると見て間違いなさそうですね」
と僕は言った。ありきたりで今更な発言だったが、
「良かったです。先生に信じていただけで」
と物橋さんは嬉しそうに微笑んだ。
「穴ァ、掘りよるんじゃ」
「誰にも見つからん場所に埋めたるでなァ」
物橋さんの記憶に刷り込まれたというこの二つの言葉は、殊に重要な意味を持っていると思えた。単に霊的な怖さだけではないと感じるのが、穴、である。穴掘り男の存在がこの場合、どうしたって大きい。ただし、代々農家を営んで来たであろうこの村でなら、堆肥や腐葉土の話を聞く限り穴を掘る作業自体は珍しくも特別なこともでないようだった。
「話は少しそれてしまうんですが」
僕がそう尋ねると、パソコンに相対していた物橋さんが身体ごと僕に向き直った。
「物橋さんのお母様、えっと、君子さん」
「はい」
「は、もともとこの村の御出身ですよね」
「そうです。祖父は亡くなりましたが、映像にも出て来る千歳おばちゃんの娘です」
「徹さんの妹」
「はい」
「東京でご結婚されたんですか。それとも仕事の関係で引っ越したとか」
「んー、どうなんだろう。どうしてですか?」
「あまりご家族の話に首を突っ込むのもどうかとは思うんですが、物橋さんから聞いた限りでは、最近は田舎に帰っていらっしゃらないご様子なのかな、と思ったんです」
「確かに、小さい時は母に連れられてこの村に戻っていたそうですが、そもそも私にはその記憶は残されていませんし、そう考えると相当前なんだと思いますね」
「僕は喋れませんが、物橋さんはとても上手に関西弁を話すんですね。お母様は今もそうなんですか?」
「半々くらいですね。使い分けている感じです」
「するとつまり、特に田舎に対して強い忌避感があるとか、避けているというわけではないんですね」
「関西訛りに対してはないと思いますが、ひょっとしたら、今思えば村に対しては少しあったのかもしれません」
「それは、どうして?」
「父方の実家にはよく帰省するんです。鎌倉なんで近いと言えば近いですが、H県に母の実家があることは私も父も知っていますから、帰んないのかっていう話はしてたんです。年二、三回くらいは帰るもんなんじゃないかって。だけど母は、そうねーなんて笑ってかわすばかりで」
「じゃあ、今回お母様の口から映画撮影のロケ地にどうだって言われた時は、相当驚かれたんじゃありませんか。いきなりなんだって」
「驚きました。だけど順序が逆というか、母に映画の話をしたのは私が先なんです。今、こうこうこういう仕事をしていて、これが終わったら来年あたり、映画を撮らせてもらえそうなんだーって」
「なるほど。今回お手伝いいただいたネットドラマの件がようやく終わって、次、という話ですね」
僕の問いかけに物橋さんは黙り、
「先生」
と静かな声でそう僕を呼んだ。
「は?」
「だから、私がやりたいって言った仕事なんですってば」
右手で太ももを叩きながら彼女はそう言った。直視できないほどの笑顔だった。
「あ、ああ、まあたとえそうでも仕事は仕事ですし、苦労もあったでしょうから。まあ、そういう意味での、ようやく、ですよ」
「ずっとやりたかったんですよ、この仕事」
「はあ」
「企画としてのスケールだけ言えばそれは映画の方が断然大きいですけど、生意気な言い方すればこの企画は、声をかけていただいた側なので。私としては自分で動いて勝ち取った、先生との仕事は大切なものだったんです」
「……申し訳ありません」
だのに僕ときたら、今夜呼び止められるまで、彼女の名前を憶えてすらいなかった。きっと嫉妬もあったに違いない。若くて美貌に恵まれた若い女性が、僕の知らない場面で多くのスタッフに囲まれて談笑している。僕の知らない所で、僕が原案協力したネットドラマの制作がどんどんと進んで行った。僕は基本的には名前を貸しただけで、実際には何もしていない。設定や人間関係の齟齬などを電話やメールで確認されたり、途中まで撮り終わったオープニングムービーなんかを見せられて「いいですね」と答えるだけの役回りだった。若くて才能のあるクリエイターに僕の作品が取られたような、そんな子供じみた嫉妬が芽生えていたのかもしれない。
「あなたがそこまで思っていてくれたなんて、全然知りませんでした」
「だけどまだこれでも途中なんですよ、夢の途中」
「どういう意味ですか?」
「私本当は、『丸命』の映像化をこの手で実現したかったというよりも、先生と一緒に仕事がしたかったんです、ずっと」
「……」
「……あははは、答えようがないですよね、すみません。変な言い方しちゃって」
「いえ、ありがとうございます」
「もちろん小説ありきなんですけどね、先生に対する思いは」
「僕なんて一発屋の代表みたいなものじゃないですか。確かに『丸命』は大きな賞をいただけましたけど、それまでは全然泣かず飛ばずで、その後もあれを超える作品を残せたかと言われると……」
「売上部数や他人からの評価を実績って呼ぶならそうかもしれませんけど、私がこれまで読んで来た先生の作品には一貫性がありました。つまり、先生は何も変わっていない。たまたま、『丸命』がピックアップされただけ。先生の作品はいつも、最新作が最高傑作でした。私は先生が賞を獲ったから好きなんじゃありませんよ。逆にミーハーな売れ方してちょっと嫌な気持ちにもなりましたし」
「それはまた、なんとも」
「でもやっと言えた」
物橋さんは独り言のようにそう言って視線を外し、微笑みを浮かべながら作業部屋を見渡した。
「ずっと先生と何かを作りたかった。一緒に仕事がしたかった」
僕は彼女にそういわれた瞬間、不覚にも泣いてしまった。
まさか声に出して嗚咽したわけではないが、無意識のうちに流れた涙の量が思いもよらず多かった。するとそれを見た物橋さんは温かい笑みを浮かべたと思いきや、彼女もまた僕につられて涙を流したのだ。僕は何故だか堪えられなくなって、服の袖で目元を押さえた。
「すみません」
と詫びると、物橋さんは自分のハンカチを取り出して僕に差し出してくれた。
「こちらこそすみません、余計なことをべらべらと」
「いえ。……本当に嬉しかったです。報われた思いがします。それなのに僕は」
「先生」
僕はほのかな香水が鼻腔をくすぐるハンカチで視界を覆ったまま、「はい」と答えた。
「先程先生が……と仰ら……ですか?」
急に物橋さんの声が遠くなり、僕はハンカチを外して彼女を見返した。
「すみません、今、何と?」
「先程、私の母が村へ帰らないのは何故か、という話をされたじゃないですか」
「ええ、はい」
「先生の書かれたコメディ小説で、『幻覚通り皆殺し商店街』ってありますよね」
「……マニアックですね」
「いえ、あれも私、大好きな作品なんです。それに先生が母について仰りたかったことって、皆殺し商店街と、似たような意味合いじゃありませんか?」
注釈が必要なのであえてこの場で記したいと思う。僕が書いた『幻覚通り皆殺し商店街』という作品は、一言で言えば殺人犯たちが恩赦をかけて殺し合う物語だ。だが単なるクライムノベルと趣を異にしている部分は、登場人物たちは誰が殺人犯で、誰が自分を殺しに向かって来るかを全く知らないという点にある。年に一回行われる殺し屋たちの宴の舞台となる商店街には、何も知らない地元住民たちが普段通りに生活を送っているのだ。誰も殺人犯だとは思わない意外な人物が襲い掛かってきたり、人殺しにしか見えない男が実は……だったりという設定の妙技で緊張と緩和を演出した、これは物橋さんの言った通り、僕なりのコメディ作品なのである。
ではここで彼女が言った「地元へ帰りたがらない母」との共通点は何かと考えれば、『幻覚通り皆殺し商店街』に出て来る主人公、『式見』という男の背景ではないかと気が付いた。式見はかつて人を四人殺した大罪人である。しかし恩赦対象として宴に選出され、その商店街へやってくる。だが式見はぎりぎりまで足を踏み入れることを躊躇っていた。何故ならその商店街こそが、式見に四人の人間を殺させた因縁の地だったのだ。……しかしだ。
「……僕は、物橋さんのお母様に何か後ろめたいことがあるんじゃないかと疑って、先程のような質問をしたわけじゃありませんよ」
と、僕はそう伝えざるをえなかった。君子さんがかつて例の村で犯罪に手を染め、帰るに帰れない状況なのではないかと僕が疑っている、そう取れなくもない発言だったのだ。物橋さんの質問は。
「例えば」
と物橋さんは言う。「大恋愛の末、別れて顔を合わし辛い男性がまだ村にいて、帰りたくないとか?」
「ああ、まだその方が現実的でしょうね。狭いコミュニティにおいては全然あり得る話だ」
「うんうん」
「だけどそれで言うと、僕の考えたことはどちらかと言えば逆の発想なんですよ。君子さんに能動的な理由があるわけじゃなくて、君子さん自身が嫌な思いを味わう、あるいは味わった、そういう経験が足を遠ざけさせてるんじゃないかって、そう思ったんです」
「男性に振られた程度ではなくて?」
「いやまあ人間の感性は人それぞれなんで『程度』とは言いませんが、もっと言えば君子さんは関わってすらいないかもしれませんよ。例えばですけど、大きな災害があって、多くの死者が出た土地である、とか」
「……ああっ」
と物橋さんは目を見開いた。
「穴を掘る、という謎の声を聞いた話からまず最初に想像したのが、それでした。墓穴なんじゃないか、って」
「墓、穴」
物橋さんは動揺したように左手を右手で覆い、視線を泳がせて落ち着かない様子だった。怯えているようにも見えた。
「だけどそれだと、今でもあの村に住んでいる方々が当然いるわけですから、君子さんだけが帰りたくないと思う理由にはならないんです。だから僕は、もう一つの理由を考えてみました」
そう言った僕の言葉に、物橋さんの震えがピタリと止まった。
「それは……?」
「単純な話です。おばあ様である千歳さんと君子さんの親子仲が、すこぶる付きで悪い、とか」
物橋さんの顔が曇った。
想像だにしていない、という顔だった。実際物橋さんは、母親である君子さんから、田舎で祖母(君子さんにとっての母)が元気に暮らしているか見て来てほしいと言われていたのだ。だが第三者から見れば、田舎に帰りたくないと聞けば、「ああ、仲が悪いんだな」と想像するのはそう難しいことではないように思う。忙しいか、面倒くさいか、嫌いで帰りたくないか、この三つのうちのどれかが原因なのだ。そう考えれば辻褄はあってしまう。
物橋さんはぽかんと口を開いたまま数秒僕を凝視し、やがて、
「いやぁ」
と微妙な声を出した。
「もちろん、可能性の話でしかありませんよ。だけどもしそれが本当なら、今度は『穴を掘る』という言葉にはなんの因果関係も生まれてこない。これはこれで厄介だ」
「先生は、母が帰省しなかった理由と、村で恐ろしい声が聞える理由、穴を掘る男の間に関係性があるとお考えなんですか?」
言われてふと考えこんだ。
無意識の思考だった、と言える。確信めいた閃きがあったわけではないが、なんとなく繋がりがあるんじゃないか、と思っていたのは事実だった。だが「なんとなく」では考えているとは言い難い。
この時僕の意識下にあったのは、映画撮影のロケ地という甘い名目にかこつけて、実母の健康を娘に確認しに行かせた君子さんの立場から見た、現在の村の予想図である。排他的で、とても静かで、その土地でしか通用しない謎の風習が今も生きている。そんな村には帰りたくない、と仮に君子さんが思っていたとしても、それは誰にも責められないんじゃないだろうか。
「正直、分かりません。一旦話を戻しましょう。物橋さん、夏目摩耶という女性とビデオカメラの設置を終えた後、あなたはすぐに村を出たわけではありませんよね? その間、あなたはどこでどのように過ごされていたんですか?」
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