【12】「ものしり」⑥

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【12】「ものしり」⑥

 摩耶と別れた私は、長篠の家に戻って祖母を探した。  玄関からほど近い居間の隣室が祖母の部屋である、そう真美さんから聞いて廊下に立った。ノックしようにも出入口は襖であり、指で叩くのも無粋かと思い声をかけた。 「おばあちゃん。ちょっといいかな」 「……はあい」  中から少し眠そうな祖母の返事があり、静かに襖を開いた。  祖母は明るい外の光をたっぷりと取り込んでいる障子の側に正座し、仏壇に向かって手を合わせていた。祖父が死んだのは私が生まれて間もなくだと聞いている。直接会ったことはないし、あったとしても記憶にないほど幼い頃だったはずだ。仏壇にいるのが祖父だとは限らないが、手を合わせている祖母の姿を見た瞬間、私はわけもなく祖父に会いたいと思った。 「おばあちゃん」  私が声をかけると、祖母はゆっくりとした動きで私を見上げ、 「えーっと……」  と言った。食事の席ではそれほど意識することもないのだが、やはり一対一だと祖母の痴呆は顕著に表れた。 「えーっと、あんたは確かあれやなあ、君ちゃんの」 「娘のリクです。おばあちゃんの孫のリクです」 「リクちゃんかあ、そうやったなぁ、元気かぁ?」 「元気よ。ちょっと、座ってお話さしてもらっていい?」 「構わんよ、おばあちゃんすることないもん」  祖母は仏壇の前に座ったまま膝の向きを変え、ニコニコとした朗らかな笑顔で私を見つめた。軽めの認知症らしいが、この日も清潔感のある服装と薄化粧で身なりは整えられていた。 「そうそう、君ちゃんは、東京でどんな感じなん?」 「母は、元気にやってますよ。最近また新しいパートに出ました」 「働いとるん? 何してえ?」 「近所のパン屋さんでレジ打ちしてるそうです」 「へえ、朝早いんと違うか?」 「そうみたいやね。一緒には今住んでへんからで詳しく分からんけど、しょちゅう電話はしてる」 「リクちゃん言うたねえ、あんたは今どこ住みなん」 「東京よ。でも一人暮らししてるから、家は別なん」 「ああ」  祖母はそう笑顔で頷いているも、よく分かっていないような雰囲気だった。 「なあ、おばあちゃん、聞いてもいい?」 「うん」 「おばあちゃんは、この村で聞こえる変な声のこと、どう思ってるん?」  聞いた瞬間、祖母の顔が変わった。  不安や恐怖に陰りを見せたというより、表情が抜けたような真顔になったのだ。 「なんでそんなこと聞くん」  視線を下げて畳の縁を見下ろしながら祖母は言った。「おばあちゃん、そんな話したぁないわ」 「でも、怖くないん。嫌じゃないん。なんで皆平気でおれるんかなって」 「せやかて」 「ずっとなん? ここ最近とかやなくて、この村では当たり前のことなん?」 「せや」 「……幽霊とか、そういう感じ?」 「おばあちゃんはそんなんよう答えん。聞こえるもんは聞こえるし、そやけど無視しとったらええんや。なんも悪さしてこんもの。死んだ人間のことなんてわからん。所詮生きてる人間が一番怖いわ」 「私にも聞こえるんや、おばあちゃん」 「……そうか」 「そうかって、こんなん私が言うことやないけど、全然この家に来てなかった私でも、昨日来ていきなり声を聞いたんよ。普通やないって。なんか心当たりはない? おばあちゃんのお父さんとかお母さんとか、昔からやて言うならなんか聞いてるんと違う?」 「それ聞いてどないするん」 「え?」  祖母は私を見据えて聞いた。心から不思議がっているような目だった。私がしつこくこの村の怪現象について問い詰める理由が、祖母には理解できない様子だった。もちろん私にすれば逆である。知りたいと思わないことの方が異常である。 「それ聞いてもどないもならんえ」 「そやけど」  はあ、と祖母はため息をついた。 「……ようけ人が死なはったんは聞いてるよ。戦争でな」 「戦、争。第二次世界大戦?」  思わぬ回答に私は困惑した。予想していた話とは随分と違う内容だった。 「疎開して来た学童らで一時人も増えた。この辺りは田舎で山ん中やでな、急場は死んだもんもそこらへんに打ち捨てられて野ざらしやった。その内死者の数が増えてくるとな、大きい穴を掘ってそこに死体を放り込むんよ」  穴。 「そいでそのまま一緒くたにして燃やしてしまう。伝染病も怖いで、それしかやり方はなかったんや。運悪く爆撃にやられるだけやのうて、餓死もあった。栄養失調んなるとな、なんでもない風邪でも人は死ぬ。そうやってうず高く積まれた人間の死体はいつか腐って匂いを放つ。中には焼かれんまま穴に放り込まれて埋められたもんもおったらしいけど、基本的には皆そうやって燃やされたんや」 『穴ァ、掘りよりよるんじゃ』  耳元で囁かれた悍ましい声が蘇る。だが、祖母から聞いた過去の出来事が、私の恐怖を少しだけ和らげてくれた。得体のしれないあの声も、戦争に殺され穴に放り込まれた者たちの悲痛な魂の嘆きだったのかもしれない。そう考えると、「聞いてどうする」と言った祖母の諦めに似た言葉も理解できる気がした。 「昔っから山は、死んだ人間が戻ってきやすい場所と言われてな」  と祖母は続ける。「あの世とこの世の境目みたいな場所に私らは住んでるんやあて、ようおばあちゃんのおばあちゃんからも聞かされたわ」 「境目?」 「そや。どっちでもないねん。生きてる人間の世界でも、死んだもんの世界でもない。丁度境目。そういう場所やから、いつまでも死んだ人間の声が聞えるんかもしれんね」 「……」  ああそうなのか、と信じるにはやはり超常的過ぎる話だった。だが一方で、大きく頷いてしまいそうになる自分もいた。少なくともこの村の人間が、恐怖の対象でしかないと思われた死者の声に対し、発狂せずにいられる理由が分かったのだ。つまりは先祖から教えられたこの国の歴史と、心構えの問題である。自分たちの住んでいる場所は、なのだ。それが分かっていれば、あとは受け入れるか否かだけである。  理由は一つではないと思う。しかし長篠家と夏目家は、受け入れると決めてこの村に残った最後の住人ということなのだ。 「よう分かったわ。おばあちゃんありがとう。聞けて良かったわ」  私がそう言うと、祖母は、 「そうかぁ? こんな辛気臭い話なんで聞きたいん」  と、いまだ理解できないという顔でそう聞いた。 「あはは、うーん、でもやっぱり、知らんままが一番怖いっていうのもあるやん」 「おばあちゃんは嫌やわぁ、知らん方がええこともあるし」 「世の中にはねえ、そらあるやろけど、でも、うん、なんか、納得できそう」 「変わった子ぉやなぁ、あんたァ」  その時だった。  ザ……。  ザ……。    穴を掘る音が聞こえ始めた。  音は、光差す障子のすぐ向こうから聞こえて来る。 「……あ」  考えてみれば、今私がいる祖母の部屋は庭に面している。あの、穴掘り男が出没する庭に面しているのだ。障子を開ければすぐそこに、白いタオルを頭に巻いた男が大きなシャベルを持って穴を掘っているのである。 「おばあ……ちゃん」 「し」  祖母は静かにするようにと短く息を吐き、音を立てずに膝を回転させて仏壇を向いた。両手を合わせ、顔を上げて、そして祈るように目を閉じた。  ザ……。  ザ……。  私はその場で正座したまま身動き一つとれなくなって、障子の向こう側と祖母との間で視線を行ったり来たりさせるだけだった。   『あーーー……』  障子の向こうから声が聞えた。   『これはいかんねえ』  男の声だったように思う。この時点で、その声の主が鴫田さんでないことは確定的になった。私は目玉が零れ落ちそうな程目を見開いて障子の向こう側を見つめた。 『……から……でねえ、それに関しちゃあワシも黙ってはおれんのんよ。お宅様がどういう心づもりでワシんとこに来たんかはあえて聞かんようにしよう。アレもなかなか……なもんでねえ、いっつも……いうてお宅様の話は聞いとりましたわ。意外や意外ようしてくれとると喜んどったのにまぁ……」  ザ……。  ザ……。   「リクちゃん、聞いたらあかん」  不意に祖母が言う。 「で」 「耳塞いどき。すぐ消えるさかい」 「……」  私は祖母に言われた通り、両手で耳を塞いだ。横目で祖母が私を見ているのだ。この場で逆らう素振りを見せるわけにはいかなかった。  だが、無駄だった。   『心配せんでええんよ。あとのことはワシら全部心得とるからね。なんにも心配せんでええ。……のことはうちの……が……いいで、そのうちお宅様のこともみんな忘れるよ。……そういやお宅様と一緒におったあの変わった髪色の……が……で……くっておりますんでね……、……そこいらのもんでは太刀打ちできんでしょうが、あは、それもそのはず、ワシが……もんね。ああー……ええよ、泣いてええ、それでええ、大丈夫。心配せんでもええ。ワシがちゃんとしたる。お宅様のこたあこのワシがきっちり、誰にも見つからん場所に埋めたるでなぁ』 「うぅぅ」  私の心が恐怖に負けて声を漏らした。その途端、障子の向こう側の話し声が止んだかと思うと、急にひそひそ声で囁き始めたのだ。私が思わず立ち上がると、 「消え失せぇーッ」  と祖母が叫んだ。  ビタ、と一切の音が消えた。  私も祖母も微動だにせず、遠くの方からどたどたとかけて来る重たい足音を聞いてもまだ、溜息すら吐き出せなかった。やがて、 「どないした!」  襖を開いて真美さんが顔を覗かせた。その瞬間私は崩れ落ちてワッと泣き出し、 「怖かったねえ、リクちゃん」  そう言って祖母が私の頭を撫でてくれた。  仕事を中断して山から戻って来た徹さんを交え、祖母と真美さん、そして私の四人で話をした。徹さんは遅めの昼食の為に戻って来たのだが、帰った途端私たちの様子がおかしいことに気が付き、開口一番「なんや」と聞いた。  真美さんが用意した豪華な料理を前に、徹さんは箸も持たずにあらぬ場所を睨んだ。ひどく機嫌が悪そうで、私は自分から話を切り出すことが出来ずに黙り込んだ。 「……リク、もうやめとけ」  やがてそう言ったのは、やはり徹さんだった。 「お前は君子の子やし、この村とも無関係やない。それでも正直お互い顔も分からんくらい久しぶりにひょいっと顔を出して、知らんでもええ話に首を突っ込むのは良おない」 「……」 「怖い思いをしたのは可哀そうやと俺も思う。けどお前、言うといたるけど、そない興味持ってあの声のことばっかり考えとるお前も悪いぞ。俺も真美もお袋もな、今日リクが耳にしたような話は全く知らん。聞いたこともないんや」 「え」  私は顔を上げて徹さんを見た。お猿さんが顔を真っ赤にして怒っている、そんな印象だった。しかしその目はとても真剣で、私はまた新たな不安と恐怖に心臓をきゅっと掴まれた。 「おかしな声ならなんぼでも聞いたことある。穴を掘るいう話も知ってる。けどお前……お宅様だの髪色だの。なんのこっちゃ。そらあ、リクがいかんわ。興味を持って聞き耳立てるから、聞かいでもええ声を聞くはめになるんや。お袋も言うたんやろ、この辺りはそういう土地なんや。だからもう、やめとけリク」 「君子さんは、あんたにそういう話は一切しはらへんかったん?」  徹さんに続いて真美さんが聞いた。  私は首を横に振り、「何も」と答えた。 「これまでやのうても、ここへ来るって決まった時に、ちょっと他所の土地とは違うえって、そういうのもなしか?」  尚も聞かれて、私はなんだか情けないような心境に立たされていると感じながら、 「すみません」  と詫びた。 「そらあ、ほな君子も悪いな」  と徹さんが言った。しゅんとなる私を見て責め過ぎたと思ったのだろう。 「今朝、夏目んとこの孫と遊んでたそうやんか」  と、ややトーンダウンした声で私に言った。「ええ子やと思うで。映画の件はこの際はっきりと諦めてもらうとして、なんか、そやな、年の近いもん同士、茶ァでもしばきながらお話しとったらええがな」 「茶ァしばくて」  と真美さんが突っ込んだ。  かまへんがな、と徹さんが異議を唱え、荒っぽいなあ、と祖母が苦笑いする。  私はそっと涙を拭きながら、徹さんの意見に乗っかることに決めた。どうせ夜にはこの村を離れるのだ、これ以上深入りしたとしても、またさらに怖い思いをするだけなのだろう。だったらいっそのこと、忘れてしまうのが一番良いのかもしれない。  携帯電話の音が鳴って、徹さんが自分のスマホを取り出した。ガラケーかと思いきやアイフォンだった。 「おお」  と、機嫌のよくなった声で徹さんは電話に出ると、口もとに微笑を浮かべたまま相手の話の耳を傾けた。 「……ほう、そうか。分かったわ、おう。……おう。ほな」  そのまま短い電話を終えると、徹さんが私を見つめてこう言った。 「ほなせっかくやし、リク、ええもん見せたるわ」 「……ええもん?」 「おお。ええ土産話になると思うでえ」 「そうなんですか?」  私が尋ねた時、真美さんと祖母の顔が全くの無表情であることに気が付いた。私の心臓は鼓動を止め、一瞬世界が停止したような錯覚に陥った。 「ど、どうしようかな。帰り、バスの時間間にあう、かな……?」 「なんや、びびってんのか」  徹さんが言った。相変わらず笑っていた。 「いえ、え?」 「大丈夫や。ちょっとした歴史的建造物を見せたる言うてんねん。そこやったらビデオ回してええぞ」 「ほ、ほんまですか?」 「おう。なんぼでも好きに回せ」 「ほ……」  摩耶の顔が浮かんだ。  そうだ。とりあえず摩耶に連絡しておいて、タイミングよく電話をかけてもらおう。その電話を切っ掛けにして、帰りますと切り出せばいい。設置したビデオカメラの回収も残っている。日が沈むまでには色々と片付けを済まさせねばならない。 「……分かりました。じゃあ、少しだけ」 「おお!ほな行こか!」
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