【14】「ものしり」⑦

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【14】「ものしり」⑦

 2015年12月9日、午後三時。  私は長篠家の長男・徹さんに連れられて、長篠家の裏庭から伸びるている山道へと入った。十五分程歩くと、夏目家と隣り合う鶏舎の屋根が左手に見えた。私は踏み入った事のない山の奥へと進んでいくことに不安を覚えながらも、無言で徹さんの後を追った。摩耶には隙を見てラインを打った。ちらちらと携帯を確認するわけにもいかず、届いていることをただ祈るばかりだった。  山道に入る直前、「後で、摩耶に預けているカメラを取りに行かないといけません」と嘘をついた。本当は自分たちで設置したし、朝食の席でも村の風景を撮影することについて了解を得ている。だが嘘をついてしまった。この時私は自覚したのだと思う。何故だか理由は分からないが、私は徹さんを恐れているのだと。  これまでにも仕事で無茶をする場面は多々あった。上司や先輩のアドバイスを無視して我を突き通すことなど日常茶飯事だった。今にして思えば、最初から許された範囲で騒いでいただけのちっぽけなプライドだったのだ。上司たちはあえて私が意見の反対側を行くことを楽しんでいたのだろうし、私もそれに甘えていただけだった。  しかしこの村に来て、長篠徹という母の実兄を前にして、彼が口にする意見の反対側を行く勇気はこれっぽっても出てこない。この短い期間で徹さんから嫌なことをされた記憶はないが、関西人だからと言ってノリが良いとは限らない。だから本当は、ノー、駄目だと言われた映画撮影に対し、人の映っていない田園風景や山並みを収めるだけならいいじゃないか、なんていうすり抜けは通用しないと思っていた。この村での映画撮影は諦める。だがしかし、東京に手ぶらで帰るわけにもいかなかった。徹さんや真美さんに逆らってでも強行したいわけじゃなかったが、私としてもギリギリだったのだ。  いや、ただ怒られるだけならいいのだ。私はどこかで、それ以上のものを想像してしまっていた……。 「君子は元気にしとっか?」  緩やかにカーブしながら山の上へと続く、未舗装の一本道だ。徹さんは慣れた足取りで前を歩きながら、私にそう尋ねた。 「元気ですよ。今もまだパートに出てます」 「ほお」 「……」  会話が続かず、意味深な沈黙が流れる。 「叔父さんも元気そうですよね。足腰なんか丈夫そうだし」 「おお、まだガタはきとらんで」 「母なんてしょっちゅう腰が痛い、肩が痛いなんて愚痴ばっか言って……」 「なんで東京弁なん」 「……」 「えらいよそよそしいやんか」 「……いやー、意識してないとなかなか出てこなくなっちゃって。お母さん、パートに出始めてから意識して標準語喋ろうとしてるみたいなんで」 「ほお」 「……あ、今登ってるこの山って、誰の山なんですか?」 「……」  返事は返ってこなかった。  私は口を噤み、徹さんからやや距離を開けて後方を歩いた。  三十分以上は歩いたと思う。山道であることを考えると距離はそうでもないのかもしれないが、何よりかかった時間が気になった。帰りは坂道を下ればいいだけだが、それでも二十分以上はかかるだろう。腕時計を見るともう四時前である。何時までに帰らねばならないと決まっているわけではないが、今日中には村を出たかった。山間の寒村ともなれば、麓の集落にやって来るバスは下手をすると夕方で最終便ということもありえる。その時はタクシーを呼べばいい話だが、なんなら既に帰りの支度を済ませていても良い時間ではあった。 「……もうすぐ着くわ」  と徹さんが言った。 「あ、はい」 「そんなに帰りたいんならなんで来たんやな」  前を向きながらではあったが、割と痛い質問を徹さんに投げかけられ、私は思わず下を向いた。 「あ、え、いや、帰りたいとかそういうことでは」 「腕時計ばっかり気にして」 「冬場なんで、日が暮れるのが早いと思って、その、カメラの回収もありますし」 「回収? なんやな回収て。夏目の孫が持ってるんやろ」 「あー、なんか、言葉間違えちゃいましたね」 「言い訳ばっかりやのう」 「……あの」  私は思い切ってそう声をかけた。 「なんや」  と言って徹さんは立ち止まった。 「私、何か悪いことしましたか?」 「……何がや」 「さっきから叔父さん、私にイラついていらっしゃるようなんで」 「そう見えるか?」 「はい」 「ほうか」  徹さんは前に向き直り、再び歩きだした。「……関西のオッサンなんてみんなこんやもんやろ。気にせんでええ」  気にするとかしないとか、さもこちらの問題であるかのように言うが、そういうことじゃない。しかし私は口に出せる筈もなく、小柄だが力強さの漲る背中を見つめた。  ああああ、っく…… 「きゃっ!」  突然聞こえた声に、反射的に悲鳴が出た。咄嗟に振り返るも背後には誰もいない。上を見ても、左右を見ても、足元にも誰もいない。しかし。  おおお、ううううあ……  うぐうううう、いっいいいいいい  ぐふうううう、おおああああ  悶え苦しむような男女入り混じった声がどこからともなく漂って来る。木々の間をすり抜けて、それは私たちの立つ山道で留まりながら山の中を反響していた。  く、ぐるしいいいいいい……  ううつううああああああ……  たす、たすたすたすったたす、あああああ……  いやだああああああ、たすけてくれええええええ  どおおおおしてええええええ  どおおおおおしてえええええええ  私は両耳を塞いでしゃがみ込んだ。  こんなもの耐えられるわけがない。聞こえると分かっていれば共存できるというのか? 哀れな戦没者だと思えば死者の声すら怖くないのか? そんなわけない。こんなにも悍ましい声が耳の穴から入ってくるなんて、やはり一秒だって私には耐えられない。 「立て」  そう声が聞こえ、私は右手首を徹さんに掴まれ引っ張り起こされた。 「い、いや!叔父さん、平気なんですか!?」 「こんな中途な所で立ち止まるから捕まるんや。もうちょっとや、ほら歩け」 「ちょ、ちょっと、痛い!」  言葉の意味は分からないが、目指す先に辿り着ければ状況が変わる。そういう言われたのだと私は解釈した。背の低い徹さんに無理やり手を引かれるのは疲れた体には辛かったが、怒りと痛みのおかげで僅かながら恐怖が後方へと追いやられた気がした。  さらに五十メートル程速足で歩き、私はグイと手首を強く引かれて徹さんの前に躍り出た。つんのめるようにして足を止め、身体全体で息をしながら顔を上げると、そこには一軒のボロ屋が建っていた。  住む人がいなくなり、長年雨ざらしにされて管理もされず、寂しく朽ち果ててしまった日本家屋である。入り口だったであろう戸板が外れ、地面に倒れていた。同じ並びにあって正面に見えている縁側にも、障子や襖の類はない。家の中が丸見えになっているが、調度品は一つも残されていない。何故か畳が壁に立てかけられているが、当然使用できる状態のものではなかった。 「ノウミっちゅー名前や」  と徹さんが言った。 「ノウミ?」 「能面の能に、見るや。さっきこの山は誰の山やーて聞いたやろ。この家に住んどった、能見いうもんの山や、ここいら一帯はな」  私は振り返り、背後に立つ徹さんを見やった。 「長篠家じゃなかったんですか」 「違う」 「でも、今は」 「おお。もうおらんな。せやしここやったら好きなだけカメラ回してもええで。文句言う人間がおらんからな。一はこの山の持ち主やった人間の家や。この辺りの歴史を調べたら能見っちゅう名前は絶対出て来る。どや、ちょっとばかり古臭いが歴史的建造物っちゅう感じするやろ?」  言われて再び家に視線を向ける。 「……築、百年は経ってますよね」 「そんなもんうちかてそうや。修繕修繕でここまでやってきたんや。この能見なんぞ大分古いわ。見てみいや、どこにも硝子窓はないし、玄関なんぞただの板切れやで」 「確かに、これはちょっと凄いですね。こんな山の中に……いや、山の中だからこそこうして残されていたわけですね?」 「ああ。……だーれも来んしなぁ」  背筋がぞっとした。  徹さんのこういう所が怖いのだ。関西人特有の冗談なのか何なのか、突然意味深な言葉を突き付けてくる。私が怯えるのも驚くのも彼の手の内、どんなリアクションをしたって最終的には「冗談やがなあ」で済まそうとしている、そういう思惑が透けて見えている。いや、見せている。あるいは本当に、私に対して腹を立てているのかもしれない。だが少なくとも今は、徹さんは私が怯えるのを見て楽しんでいるのだ。私はそれを肌で感じ、気持ちで負けないよう胸を張った。 「じゃあ、撮影させてもらいますね。もう時間がないんで」 「……そうかぁ、好きにしいや」 「はい」 「おっと、気ぃつけや」 「はい?」 「いっこ言うといたるわ。普段ここいらには誰もこんから、そこらへんの庭中が落ち葉で埋まっとるやろ。よう見てみ、リクのすぐ目の前」 「目の、前……」  地面をじっと見つめると、なんとなく違和感があることに気づいた。徹さんの言う通り、雨風に運ばれこの庭で堆積してしまった落ち葉で地面は埋め尽くされていた。しかし、よく見れば地面に段差のある個所がいくつか目に入った。段差は、おそらく大きな円を描いている。周囲の地面よりも一段低い円状の何かが、能見家の庭に存在していたのだ。 「……これ」 「穴や」 「あ」 「腐葉土用の穴か肥溜めかしらんけどな。秋頃からこの季節にかけてはようけ葉っぱが落ちてくる。慣れた人間やないと見分け付かんわ。でもそれ、ごっつ深いねん。気ぃつけや」  あははは、と意味不明な乾いた笑い声が私の口から漏れ出た。  私はスマホを取り出し、カメラモードに切り替えてその穴を撮り始めた。 「なんじゃい、携帯かいな」 「ビデオは全部摩耶に預けちゃったので」 「なんでまた」 「彼女、ダンスやってるんですよ。色んな角度から踊ってるシーンを撮って、あとで見返すためです。鏡で見るより参考になるらしいですよ」 「なんでそれを最初に言わん?」 「え?」  思わず撮影をやめて徹さんを見た。 「今ビデオはありません、撮影はできませんて、なんで家におる時にそう言わん?」 「……せっかく叔父さんが見せて下さると仰ったわけだし、それに、最近のスマホカメラだって馬鹿には出来ませんよ、夜でも全然綺麗に」  もうええやんけ。  呟くようなその声に、私の全身が凍り付いた。 「いつまでもいつまでも下手な言い訳ばっかりしくさりやがって、鬱陶しい。もうええわ。疲れたわ」 「……叔父さん?」 「お前俺のこと叔父さんやなんてこれっぽっちも思うてへんやろ。親戚面しとったらなんでも許される思うなよ」 「お」  激変した徹さんの態度に、私の心臓が怯えて萎縮する。胸の中心が痛い。 「ど、え、どうしたんですか、急に。私、やっぱり何か悪いことしましたか。映画の件ならごめんなさい、もう諦めましたから」 「面倒臭いわー。あー、面倒くさ」 「やめてくださいよ。どうしてそんな言い方するんですか」 「リク、お前俺らに隠し事しとるやろ」 「か、隠し事!?」 「か、隠し事!? ……ッチ。そういう芝居がかったリアクションが大嫌いなんじゃ。何おたおたしとんねん。お前の方から勝手にやって来といて今更そんな顔すんなや」  私は泣きそうになるのを堪えながら、頭の中で幾つものシミュレーションを組み立てた。相手は男性だが一人だ。農業で培った体力は馬鹿に出来ないが、小柄な分腕力はそこまで度を超えた強さではないはずだ。こういう時こそ、鞄に重たいビデオカメラが入っていれば武器になったのに。  ……武器。  私は自分が徹さんを倒そうと考えている事に気づいて怖くなった。  一体どうしてこうなってしまったんだ。私は何故追い込まれているんだ。私が何をしたんだ。映画の撮影は行ってないじゃないか。諦めると言ったのに。私は、一体徹さんのどんな禁忌に触れてしまったんだ。 「叔父さん、もう、やめませんか」 「なにをや」 「だって叔父さんずっと怒ってるじゃないですか!私が何をしたかも言わずにただ怒ってる!そんなの変ですよ!」 「……」  徹さんは何も答えず、じっと私を見た。私の目に浮かんだ涙が本物かどうか見極めているのかもしれなかった。 「……そうか。ほな、もう何も言わんわ」 「え?」  皺だらけの猿顔が、私を睨んでいた。 「ほな、さいなら」 「え?」  ガ、と。  突然何かに両足首を掴まれた。  私は何が起きたのか分からずゆっくりと視線を下げた。  私の足を、土に汚れた人間の手が掴んでいる。 「え? ……なに」  視界が歪む。  強烈な重力が身体の自由を奪う。  恐怖が意識に追いつく前に、背中と後頭部に柔らかな衝撃を感じた。 「い……いや」  背の低い猿顔の男が、今は私よりも高い位置に立っていた。  私は、穴の中に落ちたのだ。  何かに両足を引っ張られて。  何か。  汚れた人間の手だった。  汚れた人間の手が、私を、この、腐った落ち葉と虫と泥が入り混じった地獄のような穴へ引き摺り…… 『気ぃつけや』 『それ、ごっつ深いねん』 「いやぁぁぁぁッ!」  どうして!  どうして!  私は何も悪くない!  私は何も悪いことしてない!  どうして!  どうして! 「叔父さん助けて!助けて!」  助けて!   ここから引っ張り出して!  お願い助けて!  今すぐここから出て行きます!  もう二度とここへは来ないから!  誰にも言いつけたりしないから!  東京に帰りたい!  帰ったら、あのドラマのメディア取材を、たくさん受けるんだ。  念願だった、先生との仕事。  高校生の頃から夢だった。  男と女というだけじゃなく、一人の作家として。  私の大好きな先生と肩を並べる。  あなたのおかげで私はここに立っています。  そう言える日がもうそこまで来ている。  こんな汚い穴倉に落ちた私を、先生はどんな目で見るだろうか。  私、結構頑張ったんだよ。  先生に喜んでほしいから。  いや、違うね。  私はきっと……。  先生。  私はずっと。  先生。  先生。
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