【2】「ものしり」①

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【2】「ものしり」①

 生産性のないうらぶれた寂しい村を「寒村」と呼ぶそうだ。  だが実際私が訪れたのは、村というよりも山の中にひっそりと佇む私有地である。生産性うんぬんは別にしても、寒々しい村という呼び名はまさにその通りだと思う。場所はとりあえずH県としておく。東京からでは日帰りするのにちょっとだけしんどい。母から祖母の様子を見て来いと仰せつかっていることもあって、一、二泊はするつもりでいた。もとよりWi-Fi環境など期待できないだろうが、そもそもネットに繋がらない立地である可能生も高く、その場合は用事を済ませ次第撤収したいと考えていた。 「えー、2015年12月8日、年の瀬。H県〇☓市に到着しました。私は今、母方の祖母の家を目指しています。ここからはタクシーを降りて、徒歩です。山ん中です。怖いです!」  私は持参した小型のビデオカメラで撮影しながら山道を歩いた。まだ午前中だった為暗いというわけではないが、東京暮らしに慣れた人間に山は辛い。友達同士でキャンプに来たなら話は変わってくるだろうが、たった一人でどんどん人里離れて山を登るのだ。仕事の為、未来の為、祖母の為、そういった大義名分がなければすぐでにも走って帰りたかった。 「えー、ここからはですね、撮影中ひょっとしたら関西訛りが多く飛び交うかと思いますが、ご了承ください。私喋れるかなー。母がこっちなんで、子どもの頃は喋ってた気がするんですけどねえ」  今回の撮影はSNSへの投稿目的ではない。映画製作オファーでの企画会議に用いるためである。しかし、ただ漫然と風景を撮るだけでは資料として弱い。活き活きとした生活模様、人々の営みを映像に収めてこそプロデューサーたちの心を掴めると思うのだ。  今回私が撮りたいと思っている映画の内容は、要約すると以下の通りである。  都会から田舎へと引っ越して来た、地方への憧れを抱く若者が、現地の人々と触れあう中で感じる生活環境の差、しかし自分となんら変わらない将来への不安、人間関係への失望、あるいは渇望などをつぶさに見つめることで、『生きることの意味は場所によって左右されるものではない』と気づいて都会へと戻っていく、そういう人間ドラマである。ありふれた題材だとは思うが、初めて映画という大規模な企画に自己投影するなら、奇をてらわない方が良いというのが私の出した結論だった。色気を出すならベーシックな下地でこそ個性は映える、というのが映像クリエイターとしての私の持論である。 「着きましたー。うわ、やっぱりなんとなぁく懐かしい気がしますねー。お婆ちゃん元気だろうか。お前誰やねん、ってやっぱり言われちゃうんだろうな。いやいや、一応ね、今日ここへ来ることは事前に伝えてあるんですけどね。ふうーん、緊張、どきどき」  麓の村から山沿いに車を走らせると、五分程で林道へ入る脇道にさしかかる。この先私有地、と書かれた立札が目印だ。国有林の林道であれば車両の進入は可能だそうだが、地元のタクシー運転手によればここから先は個人所有の土地の為、許可なく入れないと言われた。 「あの、私この上に住んでる人間の親戚です」  と言うも運転手は、 「……ああー、でも、狭いもんねー」  と苦笑いで首を横に振った。歩け、という意味だった。  獣道ではなかったが、未舗装の道をたっぷり三十分は歩かされた。  突然視界が開け、山肌に沿った勾配のある土地に出た時には正午前になっていた。お腹が鳴りっぱなしである。 「着いた」  幸いにも、まだ今年に入って雪は一度も降っていない。山肌は綺麗な常緑樹に覆われ、たくさんの緑とまばらな茶色い葉っぱのコントラストが美しい山並みを見せていた。周囲をぐるりと山々に囲まれた立地に、まるでひっそりと隠れるようにして、私の目指す場所は佇んでいた。  コンクリート舗装された大きな坂道の右脇に、祖母の家はあった。見渡す限り何もない平地を予想していただけに、想像以上の山奥だったことは少しだけ残念に思う。そうは言っても大人数で動きのある撮影がしたいわけじゃない。かえってこの方がリアルなのかもしれないな、と思い返した。  まず、大きな庭が目に入った。その奥に古い平屋建ての家。その隣にはわりと新しい二階建ての家が見えた。ああ、泊まるならあっちがいいな、とカメラの前で言いかけて口を噤む。庭と道路に境目はなく、門扉や生垣で区切られていない為やたらと広い印象だ。とりあえず挨拶をせねばならない。所々掘り返されたような、色の変わった庭の様子をカメラに収めながら玄関を目指す。摺りガラスのはまった懐かしい引き違い戸。その上に表札が出ていたので一応アップで撮る。  『長篠』と読める。母の旧姓と同じであり、やはりこの家が祖母の家に違いなかった。使い古されて外れかかった呼び出しブザーが目に入り、私は一旦撮影を中止してブザーに手を伸ばした。 「……?」  どこからともなく、ざく、ざく、という音が聞こえてくる。  振り返るも近づいてくる人影はない。それは地面を蹴るような、あるいは地面を掘っているような音にも聞こえた。私は玄関から離れて家の左手に回ってみた。 「あ」  人がいた。気が付かなかったが、どうやら男性のようである。  しかし家の左手側ということは、広い庭を突っ切って玄関に辿り着く前から、視界には入っていた筈だった。一本道からこの家の全体像を視野に入れた時には、そこに人はいなかった。どこからともなく現れたその男性は、頭に白いタオルを巻いて、大きなシャベルで庭の土を掘っている。十五メートル程の距離がある為人相などは分からなかったが、なんとなく話しかけ辛い雰囲気を感じて急に怖くなった。私は気づかれる前に踵を返し、再び玄関目に立って呼び出しブザーを押した。 「それ壊れてんで」  突然真横から話しかけられ、私は飛び上がった。祖母の家と右横に建っている比較的新しい家との間の路地から、五十代くらいの女性が歩いて出て来たのだ。 「……あんたぁ、誰や?」 「あ、の、私」 「えらいべっぴんさんやなあ、なんでこんなとこおるん」 「あの」 「迷たんかあ? いやいや迷う言うたかてそもそもなぁんでこんなとこ来たんや」 「私」 「腹減ってるか」 「……」 「卵食べるかあ」 「え!?」 「なんやぁ、あんたぁ、しゃきっと喋りいなあ、おっとりしとんなー」 「すみません。あの私、長篠君子の娘の、リクと言います。物橋リクです」 「君子……え、君子さんの? へー! あんたがあのリクちゃんか!? ほおか、あんたがそうかいや、びっくりやわ。ほなちょっと待っとりい」  急ピッチで話し続けるその女性は、小脇に抱えた鶏卵の乗ったざるを無造作に私に押しつけ、祖母の家の玄関戸をガラガラと開けた。 「おかあさーん、物橋さんとこのリクちゃん来はったでー、おかあさーん」   その女性は言いながらずかずかと家の中へ入っていった。私は左手に自分の鞄を持ち、卵が十個乗ったざるを右手で抱えたまま、どうして良いか分からずに立ち尽くした。とりあえず卵の数を数え、卵かけごはんが食べたい、と思った。  その後戻って来た女性に手招きされ、私はようやく祖母の家に足を踏み入れた。 「お邪魔しまーす……」  来たことがあるはずなのだ。しかし、この目で見る祖母の家には何一つ見覚えのあるものがなかった。土間の右側に置かれた大きな靴箱も、天井からぶらさがっている大きなシカの角も、襖が開け放たれて奥が見えている開放的な室内も、食べ物の匂いが混じった他人の家の生活臭も、何ひとつ思い出を連れて帰ってはくれなかった。 「ほー。よう来たなあ」  奥から出て来たのは、予想以上に若い女性だった。小柄な体に大きな半纏を着て、若干背中が曲がっていること以外はとても若々しい人だった。髪の毛はふさふさできれいに櫛が通され、控えめながらも化粧をしているようだった。年齢はまだ八十手前のはずである。祖母ではあるが、おばあちゃんと呼ぶにはいささか抵抗のある、いまだ女性らしさを捨てていない印象だった。名前は長篠千歳。まあ、とは言えおばあちゃんと呼ぶしかないのだけれど。 「お無沙汰しています。物橋リクです。君子の、娘です。……おばあちゃん」 「うん。うん。遠いーとこよく来たなーあ。おばあちゃん、もうちょっとボケてしもうてあんたのことよう分からんけど、先だってなーあ、君子から電話はもろとるで。ゆっくりしていったらええわ。なんもないけどなあ」 「はい。ありがとうございます」  祖母はとても可愛らしい人だった。話し方も先程の女性とは打って変わってとてもおっとりしている。血色も良く、笑顔が明るい。良かった、母にもきちんと報告出来ると、ほっと胸を撫で降ろした。 「あれ、私卵どこやったんやろ」  言いながら先程の女性が別の部屋から現れた。「ああーここや、ごめんごめん、卵、盗まれた思うたわ、堪忍え」 「あ、はあ」  何が盗むだ、人聞きの悪い。勝手に私に押しつけてったくせに。 「挨拶すんだか?」 「あ、はい」 「私は長篠真美(ながしのまみ)(とおる)の嫁や。徹て分かる?あんたの」 「はい。母の兄、ですよね」 「せやせや、今山登ってるさかい、あとで紹介したるわな」 「お願いします」 「ほいであんたどこ泊まるん、いつまでおれるん」  けたたましい女性だった。声が大きいとかではないが、とにかく捲し立てて来る。息継ぎを忘れたように、放っておくといつまでもしゃべり続ける人種なのかもしれない。普段仕事以外でそれほど声を発しない私にとって、この手の人間はついていけない。 「こうと決めてはいませんが、二三日はお世話になれたらな、と。あの、ご無理なら」 「そうしそうし、それがええわ」 「あ、はい……ありがとうございます」  すぐに帰るとは言い出せなかった。本当なら明日帰りたかったが、相手の気分を害する気がして怖かったのだ。 「どないする? こっちの家でええか。隣もあるけど、今うっとこの娘夫婦が戻ってきてんねん。気使うのがあれやったらこの家おったらええわ。平屋やけど部屋数多いしな。おかあさんと、あんたと、うちら夫婦は同じ部屋やさかい。全然いけんで」 「あ、じゃあ、はい、そうさせてもらいます。泊めてもらえるんなら全然、どこでも」 「なんやあ、あんた気い使いやなあ。かまへんねん、実家みたいなもんやんかあ、気にせんと好きにしい」 「あははは」  言ってみればこの真美さんはよそから嫁いで来た人だ。長年この家で暮らしている立場からしたら我が家なのだろう。しかし嫁いで来た人間にしては我が物顔すぎやしないか、なんてことを考えてしまうのは私が結婚していないせいだろうか。  にしても、また意地を張ってしまった。よくよく考えれば、真美さんの娘夫婦ということはきっと私と同年代だ。同年代の人間がいるにも拘わらず、私はそちらの快適そうな居住空間を蹴って、築百年くらい経っていそうな古民家を選んでしまった。あー、やばい。上手くいかない。くらくらして来たぞ。 「ほなとりあえずお昼食べよか。その前に部屋案内したるわな、おいで。おかあさん後でね」 「失礼します」 「はあいー」 「荷物これだけか?」  真美さんは無造作に私の持っていたカバンを手に取ろうとし、「重たっ!」と言って離した。私は自分のつま先を鞄の下に差し入れて衝撃をやわらげ、 「重たいんですよー、うふふ」  と胡麻化した。カメラなどの機材類が入っていることはなんとなくまだ切り出せなかった。  真美さんが前を歩いた。  正面玄関からでは気が付かなかったが、思った以上に奥行きのある家だった。基本的には玄関から真っすぐに伸びた廊下が木で言う幹の役割を担っているのだが、枝葉にあたる各部屋を区切る襖の枚数が尋常ではなかった。三人で住むには明らかに広すぎる。 「普段はこれ全部開いてんねん。でもあんたが来るって聞いておかあさんが一枚一枚全部閉めはったんよ。都会から若い子が来るさかいいうて、プライバシーやーいうて。……ここや、一番奥にしといたわ。こっからやと風呂場も近いしな。ええやろ」  案内された部屋は二十畳程もある和室だった。この家のどんつきにある部屋らしく、窓からは裏庭と山肌が見えた。物置小屋のようなものも見えているが、季節が良ければ眺めの良い部屋であろうことは間違いなさそうだった。 「ありがとうございます。……わあー、広いですねえ」 「わあ、やないねん、ほんまあ……可愛らしいなぁあんた」 「あははは、全然そんなことないですよ」 「なんでえな、東京はあんたみたいなおなごがようけおるん?」 「いますね、もう、どちらかと言えば私なんて、埋もれがちな方で」 「嘘やん!あんたで!?嘘やろ、ごっついなあ」 「うふふふ、ほんと、ごっついんですよ、東京、いやんなりますよほんま」 「お、関西弁いけんねやん」 「私が小さい時までは母も関西弁やったんで、真美さんのお話聞いてたらぶわーって蘇ってきました」 「そうか、なんかええやんか。まあゆっくりしときいな。ごはん出けたらまた呼んだるさかいに」 「すいません、何から何まで」 「ええよ。おかあさんな、ボケもうてー言うんはほんまやけど、あれで結構楽しみにしとってん、あんたが来るの。話いろいろ聞かせたってな、君子さんのこととかも」 「もちろんです」  確かに、疲れるテンションの人ではある。しかしこの真美さんもなかなかどうして、悪い人ではなさそうだった。私にも関西の血が流れているからだろうか。慣れれば楽しくやって行けるかもしれない。大丈夫だ、幸先はいいはずと、そう思い始めていた。  ……そう、夜がやって来るまでは。
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