【5】「カケノブ」③

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【5】「カケノブ」③

 面白い出会い方ですね、と素直な感想を口にした。  物橋さんは立ち上がってエアコンの温度を調整し、さっき脱いだコートを肩に羽織って戻ってきた。  ……寒がりなんだな。  すでにこの部屋の温度は十分に高いし、少量ではあるがアルコールも摂取している。僕自身は全く寒くなかった。 「聞いたら、同い年だったんです。夏目摩耶という女性とは」  パソコンの前に座り直した物橋さんはそう言いながら、撮影した夏目摩耶の顔を画面に映し出して止めた。大きな目が特徴の女性だった。色白で、物橋さんとは少し違ったタイプの、勝気そうな印象がある。たまたまそう見える表情で静止しているだけかもしれないが。 「奇遇ですね」  と僕が答えると、物橋さんは何かを言おうとして唇を開き、そのまま言葉を発さずに下唇を噛んだ。 「聞いていいですか?」  と僕は問うた。 「……はい」  物橋さんはしかし、僕を見ない。 「この、夏目さんと仰る方はひとまず置いとくとして、その、叔父さんや叔母さんはどうしてあなたがあの村で撮影することに微妙な反応をされたんでしょうか」 「……」 「先ほど仰った、しじまぎり、という言葉と何か関係があるんですか?」 「静寂、と書くそうです」 「え……あ、しじまがですか。確かにそうですね、静寂とかいてしじまとも読みますね」 「ぎりは、斬り。刀で斬りつけるとかの、あの斬り」 「はあ。では、静寂を、斬り裂く。そういう意味なんですか?」  尋ねた僕の前で、物橋さんは頭を縦に振った。彼女の握っている右手の缶ビールがペコ、と潰れた。  先程までのほんわかとした物橋さん本来の口調は影を潜め、沈痛な面持ちを隠そうともせずにとにかく静かな声で彼女は話し始めた。 「摩耶は……大阪から来ていた、夏目有三さんの孫なんだそうです」  夏目有三とはその村に住む老齢の男性で、長年山の中で養鶏を生業にして暮らしているそうだ。奥様とは離婚されており、子供や孫たちもとうの昔に山を下りた。今は一人で生活し、もともとは五つあった鶏舎も二つに減らしてひっそりと余生を楽しんでいる。そういう人物らしかった。 「摩耶は大阪でずっと、ダンスグループに所属してアイドル活動を続けていたそうです。だけど去年そこもやめて、今彼女は来年のダンス留学に向けて、身の回りの整理をしている最中らしいです。家族がどれほど山を下りてくれと言っても聞かない有三さんの説得も、その一つだと摩耶は言ってました。お爺ちゃん子だったから、自分が渡米してしまう前に、安心して余生を送れる環境に身を移してほしいんだ、って」 「なるほど」  だがもちろん有三さんには有三さんの言い分がある。過疎化が進んで周囲に人がいなくなったのは彼の所為ではない。長年住み慣れた家とともに自然に生かされ、最後は山に溶け入るように死んでいきたいと願う祖父の気持ちを、孫の摩耶さんも十分理解していた。こうと決めたらテコでも動かない。そういう真っすぐな頑固さを受けついでいることを、摩耶さん自分も自覚しているそうだ。  摩耶さんは夏の終わり頃から養鶏の仕事を手伝いつつ、有三さんの説得にあたっているという。アイドル活動もさることながら、ダンスのために留学を考えるほど未来志向のしっかりとした女性だ。それが今は山奥の人目につかない場所で、つなぎを着ながら祖父の手伝いである。それだけで彼女の愛情の深さが伝わって来る。 「こんな田舎の山の中で出会うのもそうだし、同じ年だと知って特別な波長を感じました。何より彼女はきれいだった。摩耶自身は、目頭切開やったからなーなんてあっけらかんと笑ってましたけど、そういうことじゃない。立ち姿や笑い方や、表情や仕草、全部が様になってました。私悪い癖が出て、話をしながら摩耶を被写体として見ていたんです。それがどこかの段階で伝わって、なに?って、彼女急に真顔になって」 「……うん」 「私、ピンと来てうち開けたんです。今、映画製作の企画を抱えていること。そしてその映画に、出来れば摩耶も出て欲しいこと」 「……」  急だな、とは思った。しかし物橋リクは映像クリエイターである。専門的なこの分野に対する知識や直感に関しては僕などでは口を挟む余地がない。初めて出会った人間に対し、被写体として一目惚れすることだって、別に不思議なことではないのだろう。 「そしたら摩耶はぱっと明るい顔になって。もし本当に本当ならダンス留学伸ばしてもいいって、そうやって喜んでくれました。だけど」 「……」 「この村には祖母が住んでいて、私は、この村を中心にして映画の撮影をしたいと考えていると、はっきりもそう伝えました。そしたら摩耶は、こう答えたんです」  あー……。それはー……無理やなぁ。  何故、と僕は聞いた。  結局そこへ話が戻って来るのだ。  長篠徹さんの言葉も、真美さんの態度も、おばあさんの様子も、そしてこの日初めて出会った夏目摩耶なる女性の言動も同じである。何故、この村で映画の撮影ができないというのか。 「しじまぎり、ですか」  と僕は言った。  物橋さんは俯いたまま頷き、こう答えた。 「まずは夜。この村に来た人間は初めての夜に洗礼を受けるそうです」 「洗礼」 「突然どこからともなく、人間の声が聞えて来るそうです。それも、泣き声のような」 「人間が、泣く……声?」  口に出して復唱したことを後悔するほど全身に鳥肌が立った。だが、どこからともなくとはどういう意味だ。人が泣いているのなら、近所のいる家からに決まっているじゃないか。 「人なんてどこにもいないんです」  と物橋さんは言った。「あの村には私が出会った住人以外、人はいません」 「……え」  鳥肌が定着したように硬くなる。 「周囲一キロには民家もありません。祖母の家の隣に住んでいる娘夫婦の所では、今年ようやくお腹の中に命を授かったそうです。泣き声を上げる人間などいないんです」 「それは、つまり」 「この世のものではない声が聞えてくるそうです。しかも」  一度でもその泣き声の存在を知ってしまうと、次からは昼夜問わず聞こえ始めるのだ、と物橋さんは言った。 「それは……なんと言いますか」  静寂を斬り裂いて、どこからともなく人の泣き声が聞こえてくるというのだ。たとえ映画の撮影が決行出来たとしても、出所の分からない正体不明の声を、村に立ち入った人間全員が聞く嵌めになるのだ。そうなれば確実に、撮影どころではなくなる。 「祖母の家から山をさらに上ったところに夏目さんのおうちがあります。そしてそこからさらに上を目指すと、小さいながらまだ綺麗な平屋がぽつんと建っています。それが、シギタさんのいらっしゃる小屋。シゴタさんはレザークラフトを職業にしている方で、ほとんど毎日家にこもって縫物をしているんだと摩耶から聞きました。……これで、全員です。他には誰もいません」 「おばあさんの家の隣に建っているあの新しい家は、徹さん夫妻の娘さんが建てられたんですか? まだお若いですよね」 「建てたのは徹さんたちです。祖母の家は古いですから、いつか移り住むつもりで。今は主に娘さん御夫婦が帰って来た時に使っているそうです」 「普段から村に住んでる方ではないんですね。なるほど、そちらの方はまだ妊娠中ということですか?」 「はい」 「それでその、しじま斬りを……物橋さんも聞いたんですか?」  本当に寒いのだろう。物橋さんは震えながら鼻水をすすり上げ、 「聞きました」  と答えた。 「それは、どんな……?」 「泣き声と言えばそうも聞こえます。だけど、まるで本当に人が話しているような感じでした。それが却って恐ろしいというか。低い女性の泣き声かと思いきや、子どもがべそをかいている声がしたり。誰かが耳元で喋っているように聞えたこもあります」 「耳元って、いや、だってそんな」  こう言ってはなんだが、本当に人がいないという証拠はあるのだろうか? 紹介されていないだけで、本当は山の中にまだ人が住んでいるのかもしれない。あるいは夏目摩耶のように、地元民ではないが理由あってしばらくの間滞在している、という余所者だって潜んでいるかもしれない。 「摩耶が言うには、あの声は、長篠家の敷地に立ち入った瞬間大きく聞こえ始めるそうです。夏目さんのご自宅にいる間はそこまで酷くないらしく、一番上のシギタさんの家まで行くと全く聞こえないそうなんです」 「その言い方だと、つまり物橋さんのおばあさんの家に何か原因があるんじゃないか、という風に聞こえてしまいますよ?」  物橋さんは頷いた。  ……困ったことになった。  つまり長篠家の面々も、物橋さんが許可を願い出ただと言いたかったわけではないのだ。それが妨害なのか何なのかは分からないが、とにかくこの村では存在しない人間の声が突発的に聞こえるという心霊現象が起きている。しかも、被験者は一人ではない。物橋さんから見せてもらった記録映像から察するに、登場人物全員がそうである。彼ら全員が、どこからともなく聞こえる人間の泣き声に怯えているのだ。 「摩耶の話では、声が聞こえるだけで済んでるならまだマシな方だろうって。もしビデオカメラなんか回した日には、絶対何かが映る。機械に疎い人間ばかりが暮らす村だから気づかないだけで、あの村には絶対何かがいる。しかも、いっぱいいるって」  僕は、震える物橋さんの寒さが伝播したように怖気を感じ始めた。急激な寒さと、足元から忍び寄る不穏な空気がたまらなく恐ろしかった。声には決して出さないが、今自分のいる場所が東京でよかった、大手制作会社の建物内でよかったと本気で安堵した。  夏目摩耶に誘われて、物橋さんはその後件のシギタという男性の家を訪ねたそうである。だがこの時点ではまだ有三さんにも会えていなかった。シギタさんがどういう人物なのかは分からないが、物橋さん的には真美さんに言われて来た以上、有三さんに会わずに帰るわけにはいかないという思いもあった。だが何故か摩耶さんは強引だった。有三さんと口論になって飛びだした手前、すぐに戻るのが嫌だったのかもしれない。 「言うてもまあ、通り道やん。シギタさんとこ寄ってからまたうち顔出したらええやん。山ん中すぐ暗くなんで、私ついてったげるし、一緒にいこ」  と、摩耶さんは物橋さんを誘ったそうだ。  物橋さんはそんな摩耶さんの目の輝きを見つめるにつけ、なんとなく理由が分かりかけて来た、という。夏目さん宅からさらに山を登ること十分ほど。やや開けた場所に出たかと思うや、木で出来た真新し丸太小屋が視界に広がった。 「突然来て平気なん。いてはるの?」  摩耶さんと話すうち完全に関西訛りがうつってしまった物橋さんが尋ねると、 「うん。さっきもずっとラインで話してたん」  と摩耶さんはこともなげに答えた。そして実際、摩耶さんに連れられ訪れた先で出会ったシギタと名乗る男性は、やはり背の高いイケメンだったそうだ。なるほど、と物橋さんは思った。 「物橋、リクと申します」 「……はあ、えっと。鴫田(しぎた)と申します。え、摩耶ちゃん彼女はその、お客さんなの?」  人見知りと驚きがないまぜになった様子で狼狽える鴫田さんを一目見た瞬間、物橋さんは気が付いていた。頭に巻いた白いタオル。背格好、そして家の玄関脇に立てかけられた大きなシャベル。この男性こそが、真美さんの言っていた穴掘りの助っ人を買って出てくれている「シギタさん」に間違いなかった。  聞きたいことは色々あったが、物橋さんは時間が気になっていた。真美さんに言われてご近所さんにご挨拶を、とその程度の感覚で家を出たのだ。偶然出会った夏目摩耶と話し込んでしまったこともそうだし、肝心の有三さんにもまだ会えていない。ここで若者同士盛り上がっては、一体帰るのは何時ごろになってしまうのか。娘夫婦を迎えに行った真美さんは既に帰宅しているだろうし、優先順位をあえてつけるなら、お世話になる分そちらにも早い段階で挨拶しておきたい。 「ごめん、やっぱり私先下戻らんなん」  物橋さんが眼前で手を合わせると、 「え、そうなん。今来たのに?」  とやはり摩耶さんは眉をひそめた。 「まだ挨拶出来てない人らもいてはるし、ごめん」 「あー」  有三さんへ挨拶する機会を奪ったこともあってか、摩耶さんも納得した様子で頷いたそうだ。「せやんな。シギさんごめん、また改めるわ」 「あ、ああ、うん、それは構わないけど、気を付けてね。すぐ暗くなるよ」  そう答えた鴫田さんのたどたどしい口調から察するに、あまり人付き合いが得意な人ではないんだろうな、と物橋さんは思ったそうだ。そんな鴫田さんの言う通り、帰りの坂道を摩耶さんと並んで歩く物橋さんの頭上には、すでにそこまで夜が下りて来ていた。  そして物橋さんは忘れていなかった。この段階で、彼女は膝が震える程の恐怖を感じていたそうだ。もしも摩耶さんが揶揄っているわけではないとしたら、そして親戚たちの不審な言動が同じ理由に起因しているのだとしたら、自分は今夜声を聞くのだ……この場所にいるはずのない人間の声を。  物橋さんはショルダーバッグの上から持参したビデオカメラに触れた。 「いっそのこと青春ドラマやめてホラー映画にしようか」  空元気のつもりで口にした冗談が、さらに彼女の精神状態を追い込んでいった。  その夜、物橋さんは確かに聞いたそうだ。  しじま斬りと呼ばれるその声を。
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