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【8】「ものしり」④
それが聞こえて来た時、私は美咲さんと一緒の部屋にいた。冷静に考えれば何の根拠もない、思い込みという名の安心の中にいた私は、突如響き渡った「ヴィィィィー」という不快なノイズ音に心臓を握りつぶされる程の恐怖を味わった。だが本当の意味で怖かったのは、一瞬ぽかんとした美咲さんが、ノイズが消えた後になって、咄嗟に両耳を塞いだことである。まるで次に来るそれを予見したかのようだった。
「い、今のは……」
「ん!ん!」
美咲さんは両手で耳を塞いだまま、怒っているようにも見える顔で私に合図を寄越した。
「いや、だって」
仮に今のノイズが噂に聞いた『しじま斬り』だとするなら、耳を塞いでしまう方が私には怖い。何が起きているかわからない状況で周囲の音をシャットアウトすることなんて出来るわけがない。
私が立ち上がると、
「どこ行くの!」
と美咲さんが聞いた。その口調もやはり怒っているようだった。
「だって、ものすごい音が」
……なんで
……なんで……が
「え?」
「いやッ」
……ダメ
……やめろ
……いやだ
……ふううう、ふううう、ううう
この部屋から聞こえるわけではなかった。だが確かに聞こえる。低い男性の声だろうか。感情的な抑揚を感じさせない口調なのに、苦しみと嘆きに満ちた声だった。
いいいいやああめろおおおおお
うううううおおあああ
あっああ、ああああっああああ
ううううああああ
やめ
やめ、はああああ
やめて
あああっつあ、あ、あ、やめ
「やめて!」
耳を塞いだまま美咲さんは体を丸めた。私の心臓は壊れたように暴走し、何もしていないのに息苦しくなる程強烈な鼓動を繰り返していた。確かにこの耳で聞いているはずなのに、本能が現実を拒否している。あれは誰かが近くで喋っているだとか、そういった声ではない。あれは……生きてる人間の声じゃない。
「美咲さん教えて!この声はどこから……ッ」
「やめてよ!やめて!」
「みさ……!」
声が、止んだ。
不意に戻って来た静寂の中、今は自分の心臓の音しか聞こえない。しじま斬りについて教えてくれた、摩耶の言葉が思い出された。彼女はこう言ったのである。
「……声が聞えるだけで済んでるならまだマシやで。もし映画の撮影でカメラなんか回したりしたら、絶対何か映る。機械に疎い人間ばっかりが住んでる村やから気づかへんだけで、この村には絶対ヤバい何かがいる。しかも、いっぱいいる」
そうなのだ。私はこの村へ来て、「しじま斬り」なる怪異を経験する前に、その存在だけを先に知ってしまった。いるはずのない人間の声が本当に聞こえるのだとして、本当にただそれだけなのか? 摩耶の言う通り、本当はそれ以上に恐ろしい出来事が待ち構えているんじゃないのか。
「カメラ」
私は無意識に呟いていた。夕飯前に、お借りする部屋にテスト用のカメラを設置したことを思い出したのだ。あの声がどこから聞こえたのは定かではないが、ひょっとしたらビデオカメラに何かが映っているかもしれない。
「美咲さん、私」
「行ったらあかん」
美咲さんは青ざめた顔で俯いたまま、家族アルバムを振るえる指先でなぞった。「……行ったら、とんでもないことになる」
「とんでもないこと……て?」
ズボンのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。突然の着信音に私と美咲さんは身体をびくつかせ、私は携帯を取り出して画面を確認する。母からだった。そう言えばこの村に到着してから、まだ連絡をしていなかった。帰りにマツタケを買ってきてーなんて頼まれていたが、肝心のお店を私は知らないのだ。着いたら連絡するね、と私の方から約束していたことを、今になって思い出した。
だが、今がその時ではないと思った。
「美咲さん」
「リクちゃん。世の中には知らん方がええことってあるやん。好奇心猫を殺すっていうでしょ」
「でも」
「私ははよ帰りたい。はよ帰って、無事この子を産みたいんや。こういうのは、無視するのが一番ええと私は思う。あんたもそう思わへんか?」
「本当に声だけなんですか?」
知らぬふりを通そうとする美咲さんの気持ちは理解出来た。母親としての防衛反応がそうさせるのだ。不用意な挙動を見せる私に怒りを感じているのも、それが原因なのだろう。
「……どういう意味」
「私、自分の部屋にカメラ置いてるんです」
「なんのカメラ?」
「撮影用のビデオカメラです」
「……撮影?」
美咲さんの目にはっきりと怒りが浮かんだ。わけのわからないことばかり言う私に強烈なストレスを感じる、そういう顔をしていた。
「詳しい話はあとでします。一旦、部屋に戻ります」
「リクちゃん」
「美咲さんはここにいてください」
「怖い思いするで?」
踵を返した私の足が止まる。
「……映してはいかんもんを映してしまってるかもしれんな。私はよう見んけど、うっとこのお母さんやお父さんに見せてみい。どんな顔されるか」
「何も知らないことの方が怖いって、そう思いませんか」
私は無意識に標準語で語りかけていた。
「私はただ」
と美咲さんは答えた。「ただただ無事に家に帰りたいんよ。……分かる?」
「分かりますよ、私だってそうですから」
「ほな」
「なんにせよ部屋には戻るわけですから、一旦確認しに行きます。ずっと回ってたんならバッテリーがもったいない」
私は振り返らずに美咲さんの部屋を出た。背後で畳のこすれる音がして、美咲さんが立ち上がったのが分かった。私はこばしりに自分の部屋へ戻り、ついてくる美咲さんが追いつくのを待って、襖を開けた。
「……なんにも、ないなあ」
と、美咲さんは言った。私は大きく深くため息を吐き出し、窓際に設置したカメラに赤いランプが灯っているのを確認して歩みよった。
「あんた、なんでそんな所にカメラ置いてたん?」
美咲さんに問われ、「それが」と私が返事をしようとした瞬間、再び携帯電話が鳴った。
「なんやあ、忙しいなあ、東京人はぁ」
幾分余裕が戻ったのか、言葉面ほど嫌味を感じさせない声で美咲さんが言う。すみません、と断って電話に出た。相手は母ではなく、夏目摩耶だった。
「もしもし」
「あ、物橋さん?」
「うん。どしたん」
「ごめんな急に。あの、こんなん言いにくいんやけどな」
「うん」
「うちの爺ちゃんがはよ連絡せえて言うもんやから掛けてんねんけど。……あんた、早うこの村から出て行った方がええって。爺ちゃんそう言うてるん」
「……え?」
なんや、どないした、という声が聞えた。
私と美咲さんがいる部屋の入口に徹さんと真美さんがやって来たらしい。私はちらりと一瞥して彼らに背を向け、摩耶には「後で掛け直す」と言って電話を切った。私は三脚からカメラを取り外し、振り返って徹さんに言った。
「見て欲しいものがあるんです」
キッチンへと移動し、ダイニングテーブルの上にビデオカメラを置いて再生ボタンを押した。かなり長時間回していたため、しばらくは早回しが必要だった。
「このカメラ何?」
と美咲さんが聞いた。彼女の後ろには、酔っぱらって眠っていた旦那さんの博尚さんが立っている。食卓には徹さんと真美さんが座り、まだ何も映していない私のビデオカメラをじっと睨んでいた。祖母はこの場に同席していない。
「さきほどお二人にはお話したんですけど」
と、私はまたもや標準語になって話を切り出した。夕飯の時はお酒が進んだこともあり、この話を切り出すタイミングがなかったのだ。
「実は私、これから作られる映画の撮影チームに加わることになっていて、自分の出した企画が通れば、監督をやらせてもらえることになっているんです。それで今回、その舞台をこの村にお願い出来ないかというお話を持ってきたんです。カメラは、いわゆるロケハンというやつで、会議にかけるための参考資料を撮影して帰るために回していました」
「部屋ん中をか?」
と真美さんが聞いた。
「テストでした。長時間回すつもりはなかったんです。忘れてしまって」
「映画ってあんた」
驚いた様子で美咲さんが言う。しかしその驚きはやはり摩耶とは違い、若くして映画制作を、という観点からではなかった。
「無理やわ……この村で撮影なんて」
「……」
はっきりそう言われ、返す言葉が出てこなかった。
実際にこの耳で聞くまでは、話に聞くだけで現実味は薄かった。かえって想像力ばかりが働いて、自分で自分を追いつめているだけだと思いこもうとした。だが本当は、想像していたよりも何倍も恐ろしい現象だった。はっきりと声は聞こえるのに、これは人間じゃないと本能が確信するのである。
言いようのない初めての感覚だった。
想像してほしい。
例えば、自分の右背後を振り返ってみる。
そこには何もないし、誰もいない。
だが何もないその場所から、突然人間の話し声が聞こえるのだ……抑揚のない、苦し気な声で。
「もしあの声がこの村中で聞こえてくるというなら、確かに美咲さんの言う通り、映画の撮影どころの騒ぎではありませんね」
私は正直に認め、ビデオカメラの再生ボタンを押した。
…………いやああめろおおおおお
うううううおおあああ
あっああ、ああああっあああああああ…………
「アホォ!」
徹さんが叫び、私を睨みつけた。
「確かに声が録音されています。私も美咲さんもその声を聞きました。だから撮影されたこの部屋の映像にはもしかたら何か手掛かりのようなものが……」
「やめえ、リク!」
徹さんがさらに声を荒げると、私の手の上に自身の手を添え、真美さんが頭を横に振った。
「やめて」
私は穏やかな口調でそういう真美さんにドキリとして、
「……すみませんでした」
と、素直に頭を下げた。
美咲さんは頬を伝う涙を両手で拭い、博尚さんは震える手で口元を覆っていた。
私のしたことは間違っていたのだろうか。
しかし、思うのだ。何故この人たちは平気なのだろう、理解出来ない現象が怖くないのだろうか、と。そう見えているだけで、実際には平気じゃないのかもしれない。だがそれにしたって、彼らは恐ろしい現実から目を背けることで、ただそれだけでやり過ごそうとしているに過ぎない。そうやって無視を決め込むことで、怪異との共存を続けて来られたというのだろうか。私にはその理由が分からなかったし、理由があっても私には真似のできないことだと思った。
私はその後、機材を入れたカバンを担いで、台所に立つ真美さんに声をかけた。今日知り合いになれた夏目さん家の摩耶ちゃんに会いに行ってきます。そう告げると、真美さんは先程の一件がショックだったと見え、ゆるゆるとした動きで洗い物を続けながら、
「あああ、はいー」
という気のない返事で答えた。「鍵はずっと開いてるしなー……気を付けて、遅うならんように」
「はい。行ってきます。……あの、先程はすみませんでした」
去り際に私が頭を下げると、真美さんはシンクに向かって私に背を向けたまま、水道の蛇口を強めに開いた。
「……」
私は唇を結んで、そのまま家を出た。
摩耶と落ち合う場所は、あらかじめ決めていた。
鴫田さんが暮らす丸太小屋の前である。私は別段鴫田さんと話をしたいとも思わなかったし、摩耶ほどの子が惚れ込む要素がどこにあるのか分からない。しかし今はとにかく一人でいるのが嫌だったこともあり、摩耶の提案は有難かった。
だが実際には、夏目家に通じる脇道の前を通り過ぎた辺りで、後ろから摩耶が追いかけて来た。
「おいっす」
「おいっす」
私たちは並んで歩いた。
とりあえず、そのまま鴫田さんの家を目指して坂道を上る。
「その荷物何?」
と摩耶が問う。
「カメラ」
「全部?」
「うん。……なんか、この子らの立場がないというか、肩身が狭いような感じになってしまって、可愛そうやし連れだしてきてん」
「何それ」
「さっき聞いたん」
「何を」
「このカメラで撮影もしてん」
「何をよ」
「……」
「……え!?」
「しじま斬り」
「……うあー」
摩耶が足を止めた。「まじかー」
私は振り返って、
「……怖かったわ」
と正直に打ち明けた。
「そりゃそうよ。私も最初聞いた時は心臓飛び出る思うたもん」
大袈裟に眉を上下させて言う摩耶に私は苦笑し、「ね」と返した。
良かった。なんとかまだ私は笑える。
「有三さんは、なんて?」
「ああー、うん……」
摩耶の話はしかし、先程電話で聞いた話以上の内容ではなかった。
有三さんのご自宅にご挨拶に伺った時は、それらしいことは何も仰らなかった。鍔のついたえんじ色の帽子を被った背の低い男性で、摩耶と喧嘩していたことも作用してか、とても無口な人だったのだ。ほとんど目も合わせてもらえず、長篠の孫です、と名乗ると、「どこから来はったん」とだけ聞かれた。東京です、と答えたものの、全く興味のない声と視線で、「ほうか」と言っただけだった。
その有三さんが、
「あの娘は、早い所村から出て行った方がええ」
そう言ったというのである。
もちろん摩耶は理由を聞いたが、明確な答えは得られなかったそうだ。しかし私と再会して話し始めた途端、「しじま斬りを聞いた」と私が言ったのだ。摩耶は直感で、「これか」と思ったという。
「早う言うたれ、ってな。ごっつ喧嘩しててんけど、爺ちゃんいきなり私の部屋来てそれ言うんやん。なんなんよ、思って。とりあえず番号聞いてたし言うだけ言うたけど、あの後も実は話したんな。でも、知らんでええ、お前に言うことやない、て」
「もー。どうしようかなぁー」
摩耶の話に、私は軽いキャパオーバーを起こしていた。
この村に来て目的を遂げられたのは、祖母の元気そうな顔を見れたことだけだった。映画撮影の話も真向から断られ、思いもしなかった心霊現象に絡め取られて身動きすらまともに出来ない。せっかく持って来たカメラを設置して回る暇もなければ、何ならそれが出来たとしても確認する作業がとてつもなく怖い。早く帰れと言われるは、しかしその根拠は隠されたままと来れば、これはもうどこを向いてもお手上げである。
「明日帰ろうかな」
と私が言うと、
「それ、手伝だおうか? カメラ」
と摩耶が言ってくれた。
「ほんま!? いや、でもなー」
「まあ、映画撮影が無理でもさあ、こういう風景でこういう絵を撮りたいんですっていう企画さえ通せば、ロケ地は別でもええわけやん」
「なるほど、言う通りやわ」
「午前中早いこと鶏舎の仕事終わらすし、その後でよければ」
「助かる。ほんま嬉しい」
「言うたけど、おかしなものが映るかもしれんで」
「……うん」
「ほな、その代わりー」
「もちろんやん。主演、夏目摩耶!」
「主役!? 調子ええなあ、それはやりすぎやろ。……豊胸手術受けよか?」
私の上げた笑い声が、静かな山の空へと吸い込まれて行った。
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