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【9】「カケノブ」⑤
「眠れなかったんじゃないですか? その夜は」
僕は一向に量の減らない缶ビールを持て余しながら尋ねた。
物橋さんはよほど寒いのか、ただでさえ白い顔を青くせながら、それでも唇に柔らかな微笑を浮かべて頷いた。
「一睡も」
東京の真ん中で、社員に二十四時間開放されているという製作会社の一室で、お酒を飲み交わしながら思い出話を聞いているだけで、それでも僕は内臓がぶるぶると震える程の恐怖に苛まれた。現場に居合わせその耳で聞いたという物橋さんの恐怖たるや、何をかいわんやである。
「でしょうね」
僕は立ち上がってエアコンのリモコンを手に取ると、設定温度をさらに二度上げた。二十九度というちょっと考え難い温度になってしまうが、とは言え暑いわけではないし、物橋さんが寒いのならば致し方ない。僕はこれもどうかとは思ったが、床に置いたカバンにかけていた自分のコートを彼女に差し出した。
「こんなんでもしよければ、羽織りますか?」
「えええ」
いいんですか、と物橋さんは喜び、わざわざ自分のコートを脱いで僕のコートに袖を通した。その上から自分のコートを羽織るのだが、サイズが違いすぎてちぐはぐな印象は否めない。だがあえて指摘する程のことでもなし、喜んでもらえるならそれが何よりだった。
「温かい。嬉しいです先生。ありがとうございます」
「いえ。……その後、声は」
「……割と、頻繁に」
「そうですか。部屋にはおひとりで?」
「はい。だけど眠ってしまうのが怖くて、布団にさえ入らずに、部屋の電気も消せませんでした」
「美咲さんという従妹の女性とも別れたんですか?」
「はい。ずっと映画撮影の話を黙っていたこともあってか、あの声が聞えた直後からなんとなく気まずい雰囲気になってしまって。それに、すぐ隣とはいっても長篠家以外に戻れる場所があるなら、そっちへ移りたいと思うのは当然だと思います」
「物橋さんを誘ってくれても良かったんじゃないかと思います」
「いやあ、そうは言っても、顔も分からないくらい久しぶりに会った者同士ですからね。みんながみんな先生みたいに優しい人ってわけじゃありませんよ」
「僕は……ああ、まあ、あれですけど。でもその、しじま斬り、ですが」
「はい」
「その村では認知された怪現象ということなんでしょうが、家の中で声が聞えるってのに、そのままそれぞれ解散して普通に過ごせるものなんですか? ちょっと信じられないですね。図太いという言い方は変ですけど」
「それは私もそう思います。でも逆を言えば、昨日今日始まった現象ならもっとひっくり返るほど驚くものなんでしょうけど、あの村ではすでにそれが日常化している。美咲さんや真美さんの反応を見る限りでは、もちろん恐怖感もあるんだと思います。だけどそれ以上に私が感じたのは、彼らの中にある嫌悪感です」
「……嫌悪」
「もっと分かりやすく単純に言えば、腹を立てている。……怒っている」
「声が、聞こえて来ることに対して?」
「はい」
ますます不思議な話だと思った。
人は恐怖によって追いつめられると感情が怒りに転移するというが、長篠家の面々はまさにそんな状態なのかもしれない。
「先程聞いた話だと、摩耶さんかな、彼女も声を聞いているんですよね。だけど夏目有三さんの家やその敷地内ではほとんど声を聞かない。山を下りて長篠家の土地に入ると声が大きく聞える、って」
「はい。逆に鴫田さんの住んでいる小屋では、声を聞いたことはないそうです。だけど摩耶はあの村に住んでいるわけではないので、どこまで正確かは分かりません」
「……人数、なんでしょうか?」
「どういう意味ですか?」
「長篠家には人が多いから、声を聞く人数も多い。つまり被験者の数が倍以上違ってくる。本当は住んでいる場所によって差が生じているわけではなくて、体験する人間の証言が出て来るか来ないか、それだけなんじゃないでしょうか」
すると物橋さんは、パソコンデスクに置いていた缶ビールをわざわざ手に取って、乾杯するように高く掲げた。
「さすが先生」
「揶揄わないでください。ちょっと思っただけですから。その、鴫田、という男性は、本当に声を聞いたことはないんですか?」
僕のその問いには、物橋さんは考え込むような顔で首を傾げた。
「よく、分からないんですよ」
「分からない?」
「ちょっと変わった雰囲気の人で。見た目はすらっと背の高い今どきの人なんです。頭に白いタオルを巻いて、着古したトレーナーと色あせたカーゴパンツ。いわゆる、山の中で下界をシャットアウトしてストイックに作品に向き合う芸術家。そんな印象です」
「気が合う感じなんじゃないですか?」
と僕が問うと、物橋さんはぴたりと動きを止めて、パチチチ、と瞬きした。
「……私ですか?」
「ええ」
「なんで?」
「な、なんでって言われても困りますけど。物橋さんもこうして一つの部屋にこもって、専門的な機材を駆使してぐーっと作品に入り込む人のような、そういう気がしたんです」
「それは、そうですねえ」
「何かそこでシンパシーのようなものが生まれて……いや、別にこれはどうもいい話でした。膨らませる意味もありません」
すると物橋さんは右手の指を使って自分と僕との間に見えない線を引き、
「私は先生に感じます」
と言った。
「そうですか?」
「先生」
「はい」
「先生は、恋愛小説を書かれたことはないんですか?」
「……」
「……ん?」
「聞かなかったことにします」
「あはは」
小さく高い声を出して笑い、楽し気な顔で彼女はビールを飲んだ。ほんのりと頬に赤みがさしてきて、ああよかった、少しは寒さもましになっただろう、僕はそう思いながら物橋さんを眺めた。
「だけど、最後までよく分かんない人でしたね」
と物橋さんは言う。「ほとんど喋ってないんです。鴫田さんに会った時は摩耶が隣にいましたし、あの人自身人付き合いが苦手そうな空気を出していたので」
「なるほど」
「積極的に話をしない方が良いのかな、って」
「いつまでいたんですか?」
「いつまで、って?」
「いや、あの村に」
「ああ。鴫田さんの家にだと思いました」
「そんな質問しませんよ」
「うふふ。まあ、実際私もすぐに帰ろうと思ってたんですけどね」
「お忙しいですもんね」
「おかげさまで」
物橋さんがH県にある寒村を久方ぶりに訪れた、その日の夜、彼女は祖母の家で「しじま斬り」と称される謎の声を聞いた。この世の物とは思われない恐ろしい話し声を聞いた日の翌日、昨晩一睡も出来なかったという物橋さんは、約束通り夏目摩耶と二人でビデオカメラの設置に取り掛かった。
たとえこの村での映画撮影が叶わなかったとしても、物橋さんが構想する映像の参考資料としては十分活用できるはずだった。
むろん、朝食の場で長篠家の面々にはその旨を告げたそうだ。周囲には民家もない為プライバシーを気にする必要は全くないが、まだ映画撮影を諦めていないと見られると要らぬ面倒ごとを招きかねない。他人の土地で自由に動くためには、当然大人としての配慮も必要なのだ。彼女はそこをきちんとわきまえていた。
「お前もなかなか強情やなあ。どうなっても知らんでえ」
と、味噌汁を飲みながらそう言ったのは、長篠徹。物橋さんの叔父さんという人である。
「家のぐるりは畑とか田んぼで使こてるけど、山ん中入ったら急に足場悪なるぞ」
「分かりました。ありがとうございます。気ぃつけます」
「なくさんときや」
と言ったのは、真美さんだ。
母親が子供に言うセリフである。物橋さんは彼女の手から熱々の味噌汁が入ったお碗を受け取りながら、「ほんまに、気ぃつけます」と笑いを堪えながら答えたという。
「高いんやろ。こんなとこで失くしたら絶対出てけえへんで」
「高いですね。落とすとすぐ壊れたりもするんで」
「せやろ。それほんまそやわ。うっとこもこないだな、美咲んとこに子供生まれっさかい言うてデジタルなんちゃら言うの買うたんよ、なあ、あんた」
「おお、買うたな、リクのんよりもっと大きい、あれ何言うんや」
そう問う徹さんに、
「デジタルビデオカメラですか?」
物橋さんはちょっと笑いながら答える。
「せやせや。おい真美、あれどこ行ってん」
「それがやんか。リクちゃん嘘ちゃうで。手振れ補正やらなんやら付いてる言うて、ほなどんなもんや言うて裏山で撮ってみたんよ。どこまで遠くを綺麗に撮れるんや言うて。ほな石ころ踏んで見事にすっ転んでやんか、痛かったでえ。……カメラがーん落として」
「え」
「うんともすんとも動きまへん」
「嘘ー」
「お前あれ壊したんか!」
驚く物橋さんの側で徹さんが大声を張り上げる。すると、ニコニコと笑顔で話を聞いていた祖母の長篠千歳が、
「朝から大きい声出さんとき」
と眉をしかめて息子を窘めたという。
物橋さんは絵にかいたような一家団欒の光景に、昨夜味わった恐怖は一体なんだったのかと思える程、胸の中がじんわり温かくなったそうだ。
「何台持ってきたん?」
と真美さんが問うた。
「あーっと、三台です」
と物橋さんが答えると、
「一個頂戴」
待ち構えていたタイミングで真美さんがねだった。物橋さんはもう堪えるのは無理だと観念して大笑いしたそうだ。
例えばこれが普段と変わらぬ日常の一コマなのだとすれば、確かに笑いの溢れた空間というのは恐怖に対して強いだろうな、と思う。僕なんかの感性では、得体の知れない恐ろしいものと共存するという発想自体が沸いてこない。しかしこの場所で生きていくしか術のない彼らにとってみれば、溢れる笑い声を持って怪異を消し飛ばしてしまう、そんなやり方が最も効果的なのかもしれなかった。
「おはようさんですー」
玄関から声が聞えた。美咲さんの旦那さん、大関博尚さんの声だった。続いてその後ろから、
「リクちゃーん、まだいてるー?」
という美咲さんの声が追いかけて来た。やがて居間に現れた二人はすでに出かける支度を済ませていた、という。
「ああ、リクちゃんおはよう。昨日寝れんかったやろ」
「全然ですよもー」
なんとか恐怖側に心を持っていかれぬよう努めて明る振る舞うと、美咲さんも負けじと、
「うちもそうやてえ」
とコテコテの関西弁で返す。「この後買い出し行くねんけど、なんか必要なもんある? お母さんの車借りるし重たいもんでもええで。持つんこの人やし」
そういう美咲さんの隣で、博尚さんは照れた笑顔で会釈したそうだ。この男も大分無口らしいが、お喋りな美咲さんの伴侶としてはとてもよく似合っている、と物橋さんは思ったそうだ。もちろん良い意味でだ。
「あー」
物橋さんが答えを渋ると、
「あ、でももう帰りはる?」
と気を効かせて美咲さんは尋ねた。
「すぐにというわけやないけど、ちょっとこの辺りの自然をカメラに収めて、一旦戻ろうかなって。今晩には」
なんや、もう帰るんか、と残念がる徹さんに、申し訳ないという顔を浮かべて物橋さんは頷いた。
彼女の本音としては、映画撮影が行えないなら別のロケ地を探す仕事が増えることになる。あくまでも候補地探しは彼女の本業ではないが、納得のいく絵を撮れるかどうかがここにかかっていた。早く次の仕事に取り掛かりたい、という焦りが彼女の中にはあったのだ。
長篠家の面々は決して悪い人たちではないし、なんならもう一日二日、逗留してもいいと思い始めていた。むろん、あの声は聴きたくない。しかし人間的な面白みを見るにつけ聞くにつけ、物橋さんはこの人たちが好きになりかけていたのだ。夏目摩耶との出会いも大きかったと思う。
「そうかあ、ほな夕方くらいにはうちらも戻ってくると思うし、そん時お土産渡すわな」
「お土産? 私にですか?」
「私言うか、リクちゃんとこのお母さんとかおうちの人らにも。マッタケ」
「ええー! 良いんですか!?」
「かまへんよ、ここらへんめちゃくちゃ生えてるし」
「……獲りに行くん!?」
思わず突っ込んだ物橋さんの声に、長篠家がどっと笑い声を上げた。
朝食の後、家の外に出て大関博尚、美咲夫婦を見送った。それが午前八時、辺りにはまだ真っ白い霧が立ち込めていたそうだ。
……この霧が晴れるまでは、カメラを回しても何も映んないな。
物橋さんが空を見上げた、その時だった。
……ザ。
……ザ。
……ザ。
玄関を正面に見て家の左手側から、音が聞えた。大関夫妻の車はすでに出発した後だ。見送りに出た真美さんは「後片付けしよ」と独り言ちて家の中に入って行った。この瞬間その音を聞いていたのは、物橋さんただ一人だけった。
……ザ。
……ザ。
……ザ。
物橋さんは息を殺して家の外壁に歩みより、両手を壁に添えたまま、ゆっくりと左手側へと進んだ。そして曲がり角に到達し、そっと覗き込む。
白いタオルを頭に巻いた男が、地面を掘っていた。
鴫田さんだ、と思ったそうだ。
「こんな……朝早くから?」
農家ではない部外者の物橋さんにとって、朝の八時は相当早い時間である。生ごみを地面に埋めて肥料にしていると聞いていたから、地面を掘ることについてはなんとも思わない。だが果たして他所の家の敷地内に、朝の八時前からやってくるだろうか。頼まれているなら仕方がないが、それにしたって何もこんなに霧の濃い早朝からやらなくたっていいんじゃないか?
プルルルル、プルルルル……
穴を掘る男がこちらを向いた。
物橋さんは咄嗟に身を隠し、ズボンに入れていた携帯電話を押さえつけながら家の中へと駆け込んだ、という。
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