山の家

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山のふもとで、また雷鳴が響いた。 朝から3回目だ。今日はやけに多い。 その轟音を聞き少し不安になった僕は、本を机に置き外の様子を窺った。 机のすぐ上には、外の様子がわかるように小さな窓がある。今日は窓からの光がひときわまぶしい。 窓を覗くと、外の世界は春の陽差しを受けた若い緑で溢れていた。樹々は今、生命力のみなぎる季節の真っただ中にあって、その生き生きとした姿は、孤独な者の目には眩しく感じられる。 僕はママの言いつけ通り、外に出ることはない。食べ物も服も全部ママが用意してくれるから、外に出る必要はないのだ。 だから、年頃のみんなのように友達と語りあったり、恋人と遊びに行くこともない。 毎日、家に閉じ込もって受験勉強だけをしている。こうして若い肉体を持て余していると、ムラムラと遣り場の無い欲望が勃興してくるのが自分でもわかるくらいだ。 僕の人生ってなんなんだろう・・・僕って何のために生きているのだろう。 思わずそんな思いが出てくる。考えても仕方ないことだが、不安に駆られると僕は悲観的なことを考えてしまうのだ。受験生によくあるこういった精神危機を僕は過去何回も経験していた、そして年を取るほどに重くなっていた。多年浪人生であるという現実が、僕の心に暗い影を落とす。不安と寂しさだけが心をみたし、それ以上何も考えられなくなった。 そうしてアンニュイな気持ちのまま、僕はそっと机の上の本を閉じた。 メガネを外し、頬杖をつく。思わず溜め息がでる。 もしかして、このままずっと受験にも就職にも失敗して部屋に引きこもり続け、友達も恋人も出来ずにひとりで死んでしまうんじゃないのか・・・・。 弱い考えばかり頭に浮かんでくる。 僕は、昨晩夕食時のママとの会話を思い出した。 食堂のテーブルには僕の大好物の燻製肉が並べられていた。ママが町まで行ってわざわざ買ってきてくれるのだ。参考書を片手に食事をしながら僕は言った。 「ママ。今日、とうとうAランクの英語問題集を制覇したよ」 「ぼうや、それはすごいね。」 「Aランクはね、ママ、英語の単語力だけじゃ解けないんだ。英語語彙力が必要で、英英辞典を理解できるレベルじゃないとね。」 「へえー、ママ難しい話は分からないよ」 「今度の受験は絶対大学受かるから。だからママ、安心して」 「そうかい」 「ところで、ママ、また新鮮な肉が食べたいな。最近干し肉ばかりで脳の回転が鈍っている気がするんだ」 「お肉かい・・・いま、町に行っても新鮮な肉はなかなか手に入らないんだよ。お前ももう少しその辺を理解してくれると助かるんだけど・・・」 「えー、でも僕はコンデションを最高にして試験に挑みたいんだ。ママ、受験が終わるまでの辛抱だからさ。」 「そうだね、わかったよ」 ママは最後に弱々しく笑った。 僕はママに負担をかけていた。今日だってママは朝から町に買い物に行ってる。だから今度の試験は絶対に受かってママを安心させないといけない。今度は僕が親孝行する番だ。 その時。 窓の外で草むらが揺れ、雑木林に大きな影が現れた。 ク、クマ!? 僕は目をこすってもう一度見る。 しかし、窓の外は穏やかで何の変わりもなかった。 見間違えか。僕は我に返ると、首を振った。 ・・・だめだ、こんなことをしてる余裕はないんだぞ・・・ 僕はいつもの、おまじないを目を閉じて唱えた。 「見ないものは存在しない。見えないものは存在しない。」 そして机に向かうと再び本を開く。 To fear love is to fear life, and those who fear life are already three parts dead‥‥. 英語の原文が目に飛び込んでくる。前にも見たお馴染みのフレーズだ。たしか、バートランド・ラッセル本の一節だ。 僕は、まんざらでもない自分の勉強量に気づくと思わずニヤリとした。 『愛を恐れることは人生を恐れること。人生を恐れる者は既に死んだも同然』 我ながら完璧な訳だ。 しかし僕はそれを記しながら、不安な気持ちになった。 ・・・次の英文も『既に読んだことのある』ものだったらどうしよう。 ページを捲ると、そこには果たして見覚えのある英文が並んでいた。さらにページを進める。 次のページ、その次のページ・・最後のページに至るまで見覚えがある英文が並んでいた。 僕は氷の手で心臓を掴まれたような感覚を覚え、動揺した。 も、もしも、この部屋にある問題集全てが『既にやったことがある』ものだったら・・・。 不安な気持ちは止まらず、僕は何も手につかなくなった。 そして、本を確認しようと本棚に向かった丁度その瞬間(とき)。
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