現在

1/2
前へ
/9ページ
次へ

現在

「また、それを見てるのか」 「うん…… 意外と、参考になる。反面教師というか、子供に…… うーんと、人に対してやっちゃいけないこと」  十年前に書いた 『遺書』 をエプロンのポケットにしまい、私は夫を見た。  この 『遺書』 を机の上に残して屋上から飛び降りた高校生の頃には、思ってもいなかった結末…… 私はマンションの下の木に引っ掛かって一命を取り留めたのだ。そして今は結婚までしており、もうすぐ子供も産まれる予定だったりする。  それもこれも、どんなに 『私に結婚なんか無理だから他当たってくれ』 と頼み込んでも、独善的な女に育てられて少々頭のオカシイ大人になった経緯を洗いざらい説明しても、全く引かなかった、やっぱりちょっと頭オカシイ (としか思えない) 夫のおかげだった。  見た目は可も不可もなく、職種は中堅企業の平社員と、どこまでも普通な感じの夫だが…… 結婚は恐怖でしかなかった私が、結婚・妊娠という行事をなんとかクリアし、ある程度前向きに出産を考えられているのも、ひとえに彼のおかげ。  彼に感謝できる、今の生活を幸せと感じられる…… その都度、そんな自分のメンタルに少々ホッとする。  ーー 大丈夫、私は 『普通』 に生きていけてる、と。 「もっとも、あの女の娘だから、無意識に人に対してしちゃってるかも、って恐怖はあるけどね? あとは、産まれてくる子に無意識に変な言動しちゃわないか、って恐怖も」 「…… まだ、お母さんを許してないんだ」 「うーん…… 微妙だな」  許すか許さないかでいえば、許せる日など一生来なさそうだ。けれど、最近は 『仕方ないか……』 とタメイキをついて終わらせている。  世の中に完璧な人間なんてそうそういなくて、その中でも不完全な方に寄ったのがたまたま、私の母だっただけ。  あんな女が母親でなければ良かった、あんな風に育てられたくなかった、とは、正直なところまだ思っているけれど……。  一生懸命育ててくれた。それだけでマシ。  物理的な虐待も育児放棄(ネグレクト)もなかった、たぶん、それだけで、かなりマシ。  私が自殺未遂を起こしても机の上に残した遺書を読んでも母は反省はしなかったが、ショックは受けたらしい。  それが愛だか執着だか思い込みだかは知らないが、赤の他人ではあり得ない…… 仕方ないのだ。仕方ない。  私が私であるしかないように、あの女はあの女であるしかなかったのだ。  -- そうやって、不満を呑み込んで、欠けたところを頑張って補って、そんな方法でしか、心までしっかりと大人には、なれないのだろう。  だって、大人になっていつまで経っても、私たちの中では(いびつ)な子供が泣いたり怒ったり、未練たらたらに叫んだりしてるのだから。 「僕にしてみれば、どんな母親でもいるだけマシだけどなぁ」 「私はあの母なら、俊くんには悪いけど施設で育てられた方が良かった」  この点で、夫と分かり合うことはない。  夫は親というものを知らない。  赤ちゃんの時に捨てられて、施設で育ったからだ。  けれども、自殺未遂以来十年ほとんど口を利いていない、結婚以来三年は顔を合わせてもいない母に妊娠を知らせたのは、夫のお陰だった。    カチッと小さな音を立てて、壁時計が10時を知らせる。  …… もうすぐ母が、我が家を訪れる時間だ。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加