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「あの、夏休みの予定はもう決まっていますか?」
いつもの鼻にかかった甘えるような声で、宮下がそう生田に訊いてきたのは、およそ一週間前のことだった。生田と宮下が勤めている会社近くの、煮込みハンバーグが評判の喫茶店で、生田がひとりランチをしていると、たまたま後から店に入って来た宮下が、店内に生田の姿を見つけて相席をして来た。
会社で同じ部署に所属しているふたりは、いままでもふたりで一緒にランチをすることはあったし、会社帰りに同じ部署の皆で飲みに行くこともあった。
この日も、ふたりとも、ただ「美味しい煮込みハンバーグを食べに来た」だけであったし、そこに「たまたま会社の同僚が居た」に過ぎず、つまり、ただ「偶然に居合わせた」だけの事で、他に意味は無かった。
だから宮下が「夏休みの予定はもう決まっていますか?」と生田にそう訊いてきたのにも、特に意味があったようには聞こえなかったし、それに答えた生田にしてみても、
「いや、別にいまのところは」と無難に、そして曖昧に返事をしたに過ぎなかった。
実のところ生田は、毎年お盆には神戸の実家に帰ることにしていて、今年も少し前まではその積もりでいたのだが、訳あって今年は新幹線のチケット購入を躊躇っていた。
だから生田がその後に続けて「特に何も決めていないよ」と宮下に答えたのは事実であったし、実際に確定していることは、何ひとつ無かった。
端から生田の夏休みの予定など、何の興味も無かったのだろう。しばらくの間があって、宮下は「ふぅん」と言ったきり下を向いて携帯電話を弄りだした。
夏休みの話しはそれで終わったものと理解して、生田はすでに目の前に運ばれている煮込みハンバーグに箸を付けた。まだ注文の届かない宮下は、退屈そうに向かいの席で携帯を弄っている。
生田が携帯でニュースを観ながら食事をしていると、宮下がふと何かに気づいたかのように、あるいは突然、何かを思い出したかのように、
「じゃあ、一緒に海に行きませんか?」と訊いてきた。
お盆前のこの時期に「海に行く」と言えば、海水浴のことしかないだろう。
当然、水着にもなるし、そうなればお互い半裸のような姿を見せ合うことになる。カップルでも親密な間柄にならない限り、そうそう「一緒に行こう」とはならない、と少なくとも生田はそう思っている。
もちろん宮下とは同じ会社の同僚というだけで、特に男女の関係ではない。
そもそも宮下は二年制の短大を卒業して、今年で入社七年目の二十七歳。片や生田は四年制大学を一年留年して入社十七年で三十九歳。年令から言っても宮下の恋愛対象にはなり難いし、なにより宮下はその愛らしいルックスと人懐こい性格で、誰からも好かれており、社内のアイドル的存在である。
一方の生田はと言えば「主任」という肩書きこそつくものの、社内でも大人しくて目立たず、部下である宮下にすら敬語を使ってしまうこともある始末で、見た目についても、お世辞にもモテるタイプとは言えない。
誰が見ても不釣り合いなふたりである。そこに恋愛感情など、あろうはずもない。
いまこうしてランチで席を一緒にするのも、同じ会社の上司だからであって、そうでなければ見向きもされないであろう。皆で飲みに行くのも、あくまで仕事上の付き合いである。
だから最初に宮下に「ウミニイコウ」と言われたときは、てっきり「ウミ」という居酒屋でもあるのかと思ってしまったくらいだった。
「海って海水浴のことだよね?」
「はい、伊豆の海に行きたいんです」
「伊豆? 下田?」
「はい、伊豆の白浜海水浴場です。二泊三日で、もう宿の予約は済んでいるんです。でも、わたしペーパードライバーで、もちろん遠距離の運転なんてしたことないし、そもそもクルマを持っていないし」
「生田主任はクルマの運転大丈夫ですよね?」
宮下が上目遣いで生田の顔をじっと覗き込む。
なぜ移動手段が無いのに、先に宿の手配をするのか理解に苦しむが、それも宮下らしいといえば宮下らしかった。
「運転は出来るけど、クルマは持っていないよ」
とりあえず事実のみを淡々と伝える。
「大丈夫です。レンタカーを借りるので」
大丈夫の意味が解らないが、それは誰が聞いても「レンタカーを借りてくるから運転をしろ」という意味にしかとれない。いや、そういう事だろう。
つまりは「みんなで海水浴に行くんですけど、クルマの運転をお願いします」
そう言われているのだ。
「みんな」が誰のことを指すのか見当もつかないが、それを敢えて訊かないのが、生田の精一杯の意地だった。
「コンパクトカー・クラスでいいかな?」
まさかマイクロバスを運転しろとは言わないだろうが、運転は出来ると言ったものの、ヴィッツより大きなサイズのクルマを運転する自信がない。
「充分です」
宮下はそう言うと「じゃあ決まりですね」と半ば押し切るカタチで海水浴行きを決めてしまった。宮下は「可愛いブルーのクルマがいいなぁ」と付け足すのを忘れなかった。
結局、レンタカーの手配も、生田の役目となった。
「トマト、お嫌いなんですか?」
ハンバーグを食べ終えた生田の皿の上に、千切りキャベツと添えてあった、赤いフルーツトマトがふたつ残っている。
「あまり好んでは食べないね」
生田が答えると、宮下がなんの興味もなさそうに「へぇ」とだけ呟いた。
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