空の色、海の色

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「下のコンビニでお茶を買って来ました。口をつけちゃいましたけど、よかったらどうぞ」 そう言ってキャップを外すと、宮下が緑色のペットボトルを生田に差し出す。 それでは間接キスになってしまうと一瞬たじろいだが、宮下にそれを気にする素振りは見えない。ここで断るのも却って不自然だし、そもそも本人がいいと言っているのだから、無下に断る理由もない。 そんな小さなことを気にしているのは、どうやら生田ひとりのようだ。宮下は助手席でいそいそとビーチに向かう準備をはじめている。 なにより先刻から喉が渇いて仕方なかった。 「じゃあ、貰おうかな」 ペットボトルを受け取るも、ラベルの位置を確認して、なるべく宮下が口をつけてなさそうな場所を選んで飲むあたりは、生田自身もつくづく小心者だと思ってしまう。 そのままペットボトルを戻していいものかどうか迷っていると、 「そろそろ海に行きましょうか」 そう言って、宮下が後部座席に抛った荷物の中から、ビーチに持参する物を選んでいる。 「それじゃあ、ちょっと着替えてくるね」 生田も後部座席に置いた袋を掴むと、駐車場脇のトイレに急いだ。 駐車場のトイレはプールの脱衣所のように簡素で広く、壁はタイル張りになっており、海水浴客が頻繁に利用するのだろう、コンクリート打ちっ放しの床は砂だらけになっていた。 生田は三つあるうちの一番奥の個室に入って、袋から出した水着を広げてみた。 まだ買った時のプライスタグが付いたままになっている。袋には他にビーチサンダルとサングラス、それにアロハシャツも入っている。どれも今回の旅行の為に近所のドン・キホーテで慌てて買い揃えたものだ。 なにしろ海水浴なんてン十年振りである。 昔、家族で須磨の海水浴場に行った時の写真がある。おそらくあれが、生田にとって最初で最後の海水浴だろう。そこには、海水パンツの代わりにオムツを穿いた、まだ幼かった頃の生田が無邪気な笑顔で写っている。 プールすら高校の授業で入ったのが最後で、当時、水着は学校指定の競泳用水着だった。 紺色のナイロン地に白い布切れを張り付けて「イクタ」と太いマジックで書かれたあれは、すでに実家で母が処分しているであろう。 「これが人生初の海パンか」 思わぬところでこれまでの人生を振り返ることになり、ついトイレの個室でひとり泣きそうになる。 気を取り直して、試しに海水パンツをビシッと目の前に広げてみた。 ドン・キホーテの店員に「バミューダパンツが欲しい」と言って、一向に伝わらなかった代物である。緑色のナイロン地に白抜きでハイビスカスがあしらわれている。 海水浴を知らないのだから、海水パンツの流行までは言わずもがなではあるが、生田の言うところの「バミューダパンツ」でXLは、店頭にこの柄しか無かったので、必然的にこれになってしまった。そして(よせばいいのに)同じ柄のアロハシャツまで買い揃えた。 海水パンツは何度ずり上げても腹の肉に押されて下がってしまう。それを紐で結んでなんとか落ちないようにして、同じ緑色に白抜きハイビスカスのアロハシャツで隠した。 サングラスは散々迷って、白いフチに光の角度でレンズが虹色に見えるものにした。 トイレの鏡の前で頭に載せてみたり、普通に掛けてみたりを繰り返し、結局、普通に掛けることにして、トイレを出た。 果たしてトイレから出てきた生田の出で立ちは、生田の腹の突き出た体型もあって、ちょっとしたキャラクターのようであった。 何故こうなってしまったのかは、当の生田にも解らない。ただいつものように、太っているのが根本的な原因である、と半ばヤケ気味な解釈をして「宮下さんも、もう一ヶ月早く誘ってくれていればなぁ」と、今まで一度たりともダイエットに成功したことが無いのを棚に上げて、ひとりごちる。 クルマに戻ると案の定、さっそく宮下に笑われた。 「えーっ! なんですか、その恰好?」 右手で口を押えて、笑い過ぎて痛いのか、もう一方の手で腹を抱えて笑っている。 「やっぱり、変かなぁ」 「いえ、変じゃないです。可愛いです」 宮下が涙目になっている。 カワイイ? これはカワイイのだろうか? そもそもひと回りも年下の宮下に、カワイイと言われて素直に喜んでいいのだろうか? 生田はいよいよ宮下に対する自分の立ち位置が分からなくなってきた。 「まぁ、キタナイって言われるよりはマシか」 見上げた処世術である。
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