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白浜海水浴場
白浜海水浴場は、その名の通り白く美しい砂浜が南北におよそ八〇〇メートルもある伊豆半島屈指の広さを誇る海水浴場で、遠浅で透明度の高い海は、海水浴場水質調査に於いても水質が極めて良好なAAAと評価されており、夏の海水浴シーズンともなると静岡県内外から大勢の海水浴客やサーファーが押し寄せる伊豆半島最大の観光地である。
コンビニ前の国道を渡り、防砂フェンスを超えると、それまで人やクルマでごった返していた景色が一変した。
「うわぁー、キレイ!」
宮下が横で感嘆の声を上げる。
見渡す限り、青と白の世界。
雲ひとつない真っ青な空に広大なー宮下の言葉を借りるならー空の青さを映す青い海。
そして延々と続く白い砂浜。
遠浅のビーチには、白く泡立つ穏やかな波が、柔らかな歌を唄うように寄せては返すを繰り返している。
まだ人も疎らな砂浜にビニールシートを敷いて荷物だけを置くと、
「ちょっと入ってみません?」
と、さっそく宮下が海に入ろうとする。
「チャックを下げていただいていいですか?」
さっと生田に背を向けると、黄色いワンピースの背中を指す。
言われるままにファスナーを腰の辺りまで下げてやると、宮下は立ったままワンピースの裾を両手で掴んで一気に捲り上げた。
青いビキニが顕わになった。
一六〇センチに満たないだろう小柄な宮下は、小顔で手足がすらっと長く、その均整の取れたスタイルで、実際よりずっと背が高く見えた。
ビキニ姿になった宮下が、海に向かって駆けて行く。
生田も慌ててアロハシャツを脱ぎ、宮下の後を追う。
「冷たーいっ」
弾けるような笑顔で波打ち際を裸足で歩いて行く宮下を追って、生田も同じようにして海水に足を浸けると、朝の透き通るような冷たさが、足元から這い上がってきた。
先を歩く宮下は、時折しゃがんでは波に洗われる貝などを拾って、子どものようにはしゃいでみせた。
華奢な宮下がもう少しだけ小柄であったら、その後を追う腹の突き出た中年の生田と宮下の姿は、端から見れば親子のように映ったかもしれない。
宮下はそのままザブザブと波を掻き分けるようにして、海へと入って行く。
「すごーいっ‼ お魚が見えますよ」
腰の辺りまで海に浸かっている宮下に呼ばれ、生田も海へと入ってゆく。
波が思いの外、力強く、宮下のいる場所に辿り着くまでに、何度も転びそうになった。
やっとの思いで宮下のところまで行くと、すでに胸の辺りまで海に浸かっている宮下の、足の爪先まで鮮明に見ることが出来た。
淡いピンク色をした桜貝のような爪が、ベージュ色の海底に行儀よく並んでいる。
この辺りの沖まで来ると海面のうねりも大きくて、背のあまり高くない宮下は、何度か頭の先まで波に飲まれた。
心細いのか、生田の腕に掴まってくる。
「やっぱり伊豆まで来て正解でしたねっ」
正解である。
感動的ですらある。
これまで東京湾や湘南の海を見る機会は幾度となくあった。しかし、その海に入ってみたいと思ったことは一度たりとも無かった。それは海水浴シーズンでも同じことだった。
伊豆の海がこれほどまでに透明度が高いというのを、生田は今回の旅行で初めて知った。
何より宮下とふたりきりで、こんな時間を過ごせるとは、夢にも思わなかった。
「正解だったね」
来てよかった。
憂鬱でしかなかった今年の夏休みが、宮下のお陰で一変した。
「後であの岩場まで行ってみましょう」
宮下の指したビーチの北端に、大人の背丈の倍ほどの巨岩があって、その上に朱に塗られた鳥居が見える。
「あの鳥居は?」
「すぐ裏手にある白浜神社の鳥居なんですって。縁結びの神様らしいですよ」
「縁結び」と口にした宮下の横顔に、一瞬だけ憂いの色が浮かんだように生田が思ったのは、おそらく先日、脇坂と宮下と三人で会社近くの居酒屋で飲んだ時のことが頭を過ったからだろう。
いつもは明るくて飲むと饒舌になる宮下が、その日はやけに大人しく、不機嫌であることを隠さなかった。その宮下がトイレに立った隙をみて脇坂に訳を訊ねると、
「あの娘、彼氏と喧嘩してるみたいなの」という返事が返ってきた。
この時点まで、生田は宮下に彼氏がいたということすら知らなかったが、あれは宮下から今回の旅行に誘われる数日前のことで、その後ふたりが仲直りしたかどうか、知る術も無いが、今回の旅行にその彼氏が一緒でないところをみると、まだ喧嘩中なのだろう。でなければ、生田が運転手をする理由など、どこにも無いのだ。しかし、これから合流してくることも十分に考えられた。なにしろ生田は、宮下の彼氏が何処の誰なのか、ふたりがどんな付き合いをしているのか、一切知らないのだから。
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