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高校を中退した私は、昼間は商店街のお弁当屋さんで、夜はパン工場で働いた。どちらも賄いがあり、食が保証されることが重要だった。
お弁当屋さんでは、たまたま作っただし巻き卵を店主が気に入り、お店のサイドメニューに加えてくれた。自分の作った料理で、お客様が笑顔になってくれる体験を重ねた私は、いつしか自分の店を持つ夢を抱いた。働きながら独学を積み、5年後、調理師免許を取得した。
お弁当屋さんの常連客だった男性とお付き合いを経て、20代半ばで結婚した。いつも売り切れ必至の『だし巻き卵を、食卓で食べたい』というのがプロポーズの言葉だった。
彼は、私の夢を後押ししてくれた。息子が生まれ、5歳になった年、彼は会社を早期退職した。退職金を元手に、住居兼店舗の小さな「おにぎり屋さん」を始めた。ここでもだし巻き卵は、1番人気のサイドメニューになった。運転が出来る夫は、配達も買って出てくれた。企業や個人サークルなどのお得意様も付き、お店の経営は順調だった。
転機は、開店後6年目の春。
歩いて5分のマンションの1階にコンビニが出来、車で10分もかからない空き地にショッピングモールが出来た。零細企業の灯火が掻き消えるのは、あっという間だった。
負債を抱え、自己破産した。それでも生活が楽になる筈もなく、夫は長距離トラックのドライバーになり、私は昔取った杵柄でパン工場の夜勤に戻った。家族には弁当を作って、夕方出勤する――そんな生活が2年目に入った初夏。夫が突然死した。夜を通しての連日の勤務。過労死認定が当然の、タイトな勤務状況だった。
会社専属の弁護士という男が家にやって来て、過労死認定するには証拠がないと横柄に言うと、僅かな見舞金を提示した「和解書」を置いていった。争うも孤軍奮闘――勤務記録は迅速に改竄されていた。同僚達からも、過酷な勤務実態について、有効な証言は得られなかった。皆、生活がかかっている。我が身が可愛いという態度を恨めなかった。疲弊した挙げ句、泣き寝入りする形になったのが、5年前のこと。
それから、息子をなんとか進学させ、また昼も夜も働いた。息子が一人前になることだけを夢見て、ただただ働いた。笑顔など、溜め息と疲労の底に埋もれて、忘れてしまった。
その息子も――私を置いて消えた。水色のノートに、想いを吐き捨てて。
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