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衝撃
部屋に差す明かりが西に傾く頃、空腹を覚えて冷蔵庫を覗いたが、ほぼ空に近い。生きていかねばならないから、仕方なく顔を洗い、身支度を整えて、近所のスーパーに向かった。みすぼらしく悪目立ちする自転車を、駐輪場の端に止めた。
カートの中に、見切り品の野菜を数点入れて、卵を2ケース買う。夕方の特売でひき肉が安い。手頃な中サイズのパックに手を伸ばした時、耳障りなキギィ……という音と共にガツンとカートに衝撃が走った。
「あら、ごめんなさい」
振り返ると、白髪の上品そうな初老のご婦人が会釈した。
「車輪が、動かなくて……ごめんなさいね」
「いいえ。滑りの悪いカートってありますよね」
気にするほどのことではないので、社交辞令を口にして、こちらからカートを下げた。老婦人のカゴの中には、パン粉と卵にジャガイモ、それから特売のひき肉を追加したところを見ると、今夜のメニューはコロッケか。私は何を作ろう。独りだと、いつもあり合わせの炒め物になる。油を大量消費する揚げ物は、余り作る機会はない。そんなことを考えながら立ち去った。
――ガシャッ、ガラガラ……
「ああっ」
「ちょっと、お婆さん!」
こんな時間に買い物をするなんて、久しぶりだ。ついつい見慣れない新商品を眺めたりして長居していたら、大きな物音と会話が隣の通路から聞こえてきた。
「あらあら、どうしましょ……ごめんなさいね」
聞き覚えのある声に、思わず通路をグルリと回る。先ほどの老婦人が、通路に屈み込んで缶詰を拾い集めている。あの動きの悪いカートがぶつかり、通路の手前に積んであった缶詰の山を崩してしまったらしい。
「大丈夫ですか」
声をかけながら、転がっていった缶詰を幾つか拾う。
「ああ、ごめんなさい、ありがとう」
元の場所に缶詰を積むのを手伝っていたら、若い男性店員が飛んできた。老婦人が終始ペコペコと頭を下げるのをいいことに、彼は徐々に批難めいた口調で、小さく愚痴をこぼし始めた。
「ちょっと、店員さん」
お客様商売をしていたこともあるから、これは看過出来ない。
「こちらの方のカートの動きが悪いのも、原因ですよ。カートの整備は、お店のお仕事でしょう? 第一、崩れやすい陳列の仕方にも問題あると思いますよ」
老婦人のカートを押すと、やはり耳障りな金切り声を立てた。若い店員は目を泳がせて、しどろもどろに「ウチも気をつけます」と小さく謝罪した。
「災難でしたね」
「とんでもない。本当にありがとう」
「いいんですよ。一緒に会計まで行きましょう」
レジ前まで、老婦人のカートを私が押して、私のカートを彼女が押した。それぞれ会計を済ませた後、サッカー台で並んで、エコバッグに品物を詰めていく。私の方は赤札の見切り品ばかりで、少し恥ずかしい。
「主人が、急にコロッケを食べたいというから、材料を買いにきたんだけど……慣れないことはダメねぇ」
聞けば、彼女はいつも配送サービスを利用しているという。タクシー乗り場まで、2人分の荷物を持ってあげることにした。何度もお礼を言いながら、車に乗り込もうとした時、彼女が呻いた。
「あっ……ぅ……!」
片足を車内に入れた姿勢で、目を見開いたきりピクリとも動かない。みるみる額に脂汗が浮かび、運転手さんも驚いて降りてくる。
老婦人は、ぎっくり腰になってしまった。
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